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2016. 12. 02  
このブログの初期のこと、浅野祥雲の新たな像を探していると、一体の弁財天像に行きついた。

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恵那峡弁財天

この像は、岐阜県恵那市の大井ダムの真ん中にある小島、弁天島にある。地図はコチラ

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この大井ダムのど真ん中にある小島。

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拡大するとココです。ここに、

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コンクリート製の弁財天像があるのだ。

この像のことは当ブログの初期の頃に紹介した。( 浅野祥雲の謎を追え 恵那峡弁財天編 2015. 01. 23)
この像、作者の銘が入っておらず、だいぶ手を尽くしたのだが、この像の作者を突き止めるには至らなかった。
そして、この像の存在を突き止めることこそが、このブログの最大のミッションなのである。

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ところで。
以前、祥雲像修復メンバーのおいも小太郎さんから、インターネット上にこのような絵ハガキの画像が存在することを教えてもらった。

IMG_8601.jpg
(ネット上より借用)

左側は愛知県春日井市にある雲岳作『勝川大弘法』と思われる。
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現在の姿はコチラ

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昭和4年に建立された当時は傘をかぶっていなかったことがわかっている。

IMG_6201.jpg
大弘法の近くには不動明王と二童子。

さて、問題は絵ハガキの右側の弁財天像だ。
IMG_8601.jpg
その姿形は、記事の冒頭でお伝えした恵那峡の弁財天にソックリである。
なぜこの2体がセットで?という疑問はあるが、まあ恵那峡弁財天で間違いないだろうな、と思っていた。
ところが。

このたび、ネット上で情報提供を呼びかけたところ、新たな事実が判明した。
それがコチラ
thumbnail_IMG_9511.jpg
(画像はネット上より借用)

絵ハガキの下に書かれた文字をよく見て欲しい。
「中央線勝川 勝満山大師殿一願成就辨財天」と読めるではないか!

この絵ハガキの弁財天は恵那峡ではなかった!!

中央線勝川 勝満山大師殿、つまりは、
JR中央線勝川駅の近くに現存する勝川大弘法の近くに、この弁財天像があったことになる!!

そういえば!!
以前、勝川大弘法の開眼式の記事を書いたことがある。(雲岳の謎を追え 勝川大弘法再訪編 2016. 03. 18)

昭和4年4月22日の新聞、新愛知(現中日新聞)に勝川大弘法の開眼式の様子が掲載されている。
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そこにはこう書いてある。長くなるが、記事の全文を再掲したい。

勝川に建立した弘法大師の開眼入佛式
高野山東福寺両管長が臨席し
きのふ盛んに執行
愛知縣東春日井郡勝川町の山口悦太郎さんが、同町勝満山に日本一の大きい弘法大師の立像を建立したことは既報の通りであるが、この弘法像の開眼入佛式が、廿一日午後二時から勝満山で盛大に挙行された。
寒かった關係で出足がにぶったがそれでも近郷近在から續々と押しかけその數二萬と號せられ名古屋鐡道局は特に臨時列車を増發すると云ふ騒ぎであった。この日高野山總本山から管長法印大圓師、東福寺管長尾關本孝師をはじめ、来賓として愛知縣から青木道路、織田保安の両課長、堀尾縣農會長、長谷川本社調査部長、勝川町より淺井町長、井上驛長、野々山署長以下多数出席、式は可愛らしい三百人の稚児のの行列にはじまり、高野山管長の入佛讀経、東福寺管長の開眼讀経ありて後、堀尾縣農會長、淺井町長の祝辞あり。これに對し施主山口氏は一場の挨拶をなし、それより東福寺側は臺座の中に安置した千體の大師に、高野山側は側座にしつらへた不動明王、辨財天にそれぞれ讀経して四時半閉式した。餘興として棒の手、花火、餅投、(?)などがあつて非常に雑踏をきはめた



つまり、現存する不動明王のほか、この記事にある弁財天は大弘法建立当時に実在したのだ!!

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大弘法と不動明王に作者『雲岳』の銘があることを考えると、同時に建立された、現存しないこの「勝川弁財天」の作者は『雲岳』である可能性が高い。


だとすれば、遠く離れた大井ダムにあるこの瓜二つの恵那峡弁財天の作者は・・・・。
そして、昭和4年建立の勝川弁財天とどのような関係があるのであろうか。
昭和初期に突如現れた謎のコンクリート仏師『雲岳』はどこから来て、どこへ消えたのであろうか。
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2016. 10. 02  
「護国阿弥陀如来は福崎日精さんがお造りになられました。」
住職は優しく教えてくださった。

やはり、昭和12年に完成した護国阿弥陀如来は福崎日精の作だった!!
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それにしても個性的なお顔立ち。

なんでも、先々代の住職(現住職のおじい様)と福崎氏が東京での修行時代にお友達で、いつか大仏を建ててもらう約束をしていたのだそう。
その後、縁あって先々代は滋賀・良畴寺の住職となり、像の建立が計画された。
その像は、奈良の大仏よりも大きな、日本一の大仏にするため、立像としたのだという。
実際に昭和8年ごろから建立が始まり、地元財界やセメント会社など、檀家の協力もあって、昭和12年に大仏は完成した。

そして、現住職に見せていただいたのは貴重な写真の数々。
なんでも、先々代は几帳面な性格だったらしく、当時の写真はアルバムとして残されているのだという。

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建立直後の護国阿弥陀如来の写真

今まで知られていた写真と姿が違う!!そこには見事な光背が備えられている。
背後に見えるのは日本一のキング・オブ・レイク、琵琶湖である。
なお、観音の足元の賽銭箱の前に見える小さい黒い影が人である。そのスケール感、感じていただけるだろうか。

そして右下に見えるのは前回紹介した現存するコンクリ観音像。
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こちらの像もやはり、福崎日精の作なのだという。
ただ、現在劣化が進んでおり、修復も考えているが、技術が独特すぎて修復できる人間がいないのだという。
初代のびわこ大仏についても修復を検討したが、劣化が激しく、泣く泣く現在の二代目に立て替えたそうだ。

そしてアルバムには建設中の貴重な写真も!
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建設中の土台で記念写真

戦前のものが不足した時代。(セメントや鉄骨の入手方法もお聞きしたが、これはまた後々戦前大仏研究の参考になりそうなお話だった)。
とにかく、地元の人々も含めて、たくさんの檀家、信者さんの協力のもとに大仏は作られたそうだ。

そして、極め付けはこの写真!!
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建設中の護国阿弥陀如来のお顔、おそらく金色に塗られた白毫、そして・・・

大仏の隣の白装束、メガネ、ヒゲの人物が『福崎日精』なのだという!!
ついに、謎のコンクリ仏師・福崎日精のご尊顔が判明!!

そして、やはり、以前の記事で筆者が予想した人物は福崎日精氏であった!

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恵那峡坐り弘法像

さて、先ほどの大仏の写真を拡大してみる。
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中央のヒゲメガネの人物が福崎日精氏、そしてその右隣は弟子のニッシュウ氏なのだという。

福崎氏は生前、こちらのお寺の先々代とずっと家族ぐるみの交流があり、日本各地から便りが届いたとか。

寺に今も現存する香炉は昭和27年に福崎氏に作ってもらったものだそうで、大仏とは製作年が異なることも判明。
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なんでも福崎氏はものすごくストイックな、信心深い浮世離れした人物で、日本全国を行脚し大仏を建立したのだそうだ。
現住職も子供時代にお会いしたことがあるそうで、その頃にはヒゲも真っ白だった記憶があるという。
おそらく生まれは先々代と同時期の明治35年前後、そして、福崎氏は新潟でその生涯を閉じたという事実も判明。
つまり、おそらく新潟の弘法大師がその遺作ということになると予想される。

ついに、謎のコンクリ仏師の足取りを知る人物にお会いすることができた。そして、福崎日精大仏建立ヒストリーの1ページを垣間見ることができた。


改めて考えてみる。
どうだろうか、これでもなお、昭和初期のコンクリート大仏はB級スポットなのだろうか。
建立当時の人々とコンクリ仏師の熱い気持ちを思い浮かべると、とてもそんな風には思えない。
太平洋戦争と長い昭和の時代を経て忘れ去られてしまった記憶。

現在残された昭和初期のコンクリート大仏を通じてそうした記憶を掘り起こし、現代を生きる我々がその建立という偉業を再評価するべき時期に来ているのではないだろうか。

IMG_8891.jpg
2016. 09. 24  
琵琶湖のほとりに「長浜びわこ大仏」なる28mの大仏がある。
そのことは知っていたのだが、平成になってから建てられたものであり、積極的に観に行くほど自分の興味の範疇ではなかった。

しかし。
実は、今のびわこ大仏は2代目で、初代のびわこ大仏こと護国阿弥陀如来は昭和12年に完成したコンクリート製なのだという。そして、残念ながら既に平成4年に取り壊されてしまった。

昭和12年・・・このブログで追いかけているコンクリート像たちと何か関係があるのか?
そう思って調べてみる。だが、いつもながらその作者についてはいくら調べてもネット上には出てこない。

うーむ、昭和初期、コンクリート、滋賀・・・。
調べていくうちに、一つの仮説を思いついた。


しかし、断定するには情報が少なすぎるなあ。

そこで、居ても立ってもいられず、筆者はびわこ大仏のある長浜に飛んだ。

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ということで長浜。
平安山良畴寺(りょうちゅうじ)というお寺に建つこの大仏。
琵琶湖を背に立つ28mの巨像はやはり圧巻である。
しかし、今日の主役はこの像ではない。


この大仏の台座から中を拝観させていただいた。すると、初代びわこ大仏・護国阿弥陀如来の写真が飾られていた。
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27mあったというこの大仏。建立されたのは昭和12年。
今と違って高い建物のない時代、こんなものが琵琶湖のほとりに建立されたというのは、とんでもないことだったんじゃないだろうか?

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にしても個性的なお顔とフォルムである。

そして、足元にあるこの香炉。
こうろ

少し話は戻るが、ネットで幾つか、このびわこ大仏の訪問記を調べている時に、この香炉の写真を見かけた(参考:日本珍スポット百景)。
ということは、初代のびわこ大仏は壊されてしまったが、香炉だけは現存するのか?

そこで境内を散策すると、

あった。
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コンクリート製香炉だ。

私が特に気になったのはその土台。
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この香炉の土台の表現、既視感があったのだ。
どこかで見たぞ・・・むむむ・・・

思い出した。そうだ。恵那峡周辺のコンクリート像群だ。
とくに、高徳寺の境内にあった剣持弘法、その土台に酷似してる。
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恵那峡 高徳寺 剣持弘法


とすると・・・大仏の作者は・・・?
そう考えてから、再び初代びわこ大仏の写真を見てみる。
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そういえば、この立ち姿もどこかで見たぞ。
むむむむ・・・

そうだ。
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喜婦嶽阿弥陀佛(愛知県長久手市)

そして
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恵那峡・高徳寺 蛙薬師(岐阜県中津川市)

顔の大きさは全然違うのだが、衣服の表現、そして、長久手の喜婦嶽阿弥陀佛に関しては、その腕の表現までがそっくりではないか?

そして、それらの像の作者は・・・
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福崎日精!!

福崎日精はこのブログでも何度か取り上げた、昭和6から44年ごろまで全国にコンクリート大仏を立てている謎の人物。
とくに、恵那峡周辺には昭和6〜7年にかけて像を作りまくっている
そして、恵那市史によれば、滋賀県醒井の地蔵院の僧(文献により諸説あり)であったという記述がある。


初代びわこ大仏が建てられたのは昭和12年、場所はもちろん滋賀。
つまり、活動時期、活動場所とも見事に重なるのである。

これって、ひょっとして戦前大仏史上の大発見なのでは?
しかし、まだすべてが仮説(妄想)に過ぎない。

そこで、この仮説を立証するため、良畴寺の本堂を訪ねようとしたところ、その手前で一体の像が目に入った。


IMG_8852.jpg IMG_8834.jpg
このコンクリート像、ヒビが入っているが、やけに細かい造形、このふくふくしいお顔。
むむむむむ、これは、恵那峡周辺のコンクリート像群と共通する表現ではないか。やはり作者は・・・。

そして、意を決し、本堂を訪れ、住職に尋ねた。


私「すみません、びわこ大仏さんの以前に建っていた大仏をつくられた方ってひょっとして・・・」

住職「ああ、福崎さんのことですか」

・・・・!!
(後編へつづく)
2016. 05. 01  
今日紹介したいのは、新たな像。
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「岡田菊次郎君壽像」(昭和24年建立)。

この像がある場所は安城市、明治用水会館という建物の前だ。
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以前この像は安城の農協敷地内にあったそうだが、最近移転したらしい。

安城の町会議員、郡会議員、県会議員を経て、安城村、安城町長として、町政の発展に尽くした方らしい。
明治用水や施設整備で「日本のデンマーク」(リンク)安城の礎を気づいた人物だそうだ。

見た感じ新しそうに見えるこの像だが、どうやら塗り直しが行われているようだ

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うしろ

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アップ

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岡田菊次郎君壽像、とある。

先ほどの記事から、岡田菊次郎(1867~1962年)が62歳の時に銅像が建てられたということなので、最初の銅像は1929(昭和4)年ごろに建てられているようだ。
そして、金属供出により取り壊され、戦後に作り直されたとある。
こ、これは、臭うぞ。


以前に紹介した、高田知文氏像(北名古屋市)もそうだった。
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この時も、昭和3年に建てた銅像を昭和24年に「セメント材」で再建したとあったのだ。


ついでなので、その他の浅野祥雲の「偉人像」を見てみよう。
浅野祥雲は幾つかの「偉人像」を建てているのだが、現存する像の中で、紋付袴を着ている全身像で、祥雲の銘の入っている唯一の像がこちらだ。
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木村新次郎先生像(中津川市・昭和28年)
こちらは祥雲が、名古屋での成功を感謝して地元の恩師である校長先生のために建てた像である。


そして、祥雲作が疑われるものとして以前紹介したこちら
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大野晃翁寿像(北名古屋市・昭和17年)


実は、今紹介した4つ、全ての像が、右手に扇子を持ち(又は持っていた形跡があり)、紋付袴の長さや帯の形状、後ろ姿がほとんど完璧と言っていいほど一致するのだ。
木村新次郎像と高田知文像なんて、色が違うだけで本当に瓜二つだ。

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「紋付袴」というある程度型の決まった衣服とはいえ、誰かが寸法を決めていたかのようにここまでピッタリと一致するものだろうか。そして、像の材質は全てコンクリートだ。 

これはどういうことか。つまり、祥雲は戦中戦後の金属供出の影響で、戦中〜戦後、コンクリ製偉人像を作る仕事を得たのではないか、という推測に至る。
そこには銘が入っていないため、誰が作ったか記憶する人もいなくなってしまっているのではないだろうか。

この仮説が正しいとすると、だ。地元の超名士の像を作るということは、祥雲は、やはり相当腕を認められていたことになるのではないか。

もう一つこの仮説を裏付けるものとして、「名古屋市長像」
昭和33年ごろに完成した、歴代の名古屋市長の全身像である。残念なことに、後年半分に切られてしまい、元の姿は写真でしか見ることができない。
これらの像は、平和公園の平和堂の中に保管されており、年4回の公開期間に見ることができる。

この中にも、実は紋付袴の像がある。

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初代名古屋市長、中村修

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3代目、柳本直太郎

この2体だ。この2体、元は全身像で、写真で見るとやはり、右手に扇子を持った直立ポーズだった。
つまり、このポーズが「祥雲のつくる紋付袴の像」のデフォルトだったと考えられるのだ。

あくまで可能性ではあるが、コンクリート製偉人像というジャンルにおいて、まだ見ぬ像を発見できる可能性はあるのではないか。
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2016. 04. 25  
今日紹介したいのは、こちらの「大黒天のお面」である。
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このお面がある場所は、この写真の右側の灯篭の中。
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この場所、実は、愛知県春日井市にある「勝満山弘法大師」のある場所、つまり、
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何度もこのブログに登場する「雲岳作」勝川大弘法の足元である。

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この石灯篭の中に、ドラクエの隠しアイテムのように、

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この大黒天のお面がある。このお面、陶器?というか、土で作られていると思われる。


さて、なぜこのお面を紹介したかというと、実は浅野祥雲研究家、大竹敏之氏の著書の中のインタビュー記事の中に「浅野祥雲が名古屋に移住してきた当初、『土で大黒様や恵比寿様のお面を製作した』」という記載がある。しかし、実は現在、祥雲作のお面というのは見つかっていないそうなのだ。

もう一度お面を見てみよう(取り出して撮影するのはさすがに憚られたので、見にくい角度はご容赦ください)。
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この柔和な雰囲気のありがたいお顔、どこかで見たことがあるぞ。。。


そう、前回の記事、「まるは食堂の大黒天」の顔にそっくりなのだ。
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そしてもう一箇所、祥雲作の大黒天が見られる場所がある。
それは静岡県熱海市にある、
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熱海城である。
この稀有なワンダーランド・熱海城(18禁◯◯コーナーや無料のゲームコーナーなどのエンタメについてはまた別の機会に紹介するとして)、ここに、昭和30年代に製作されたと思われる3体の祥雲作コンクリ製大黒天を見ることができる。

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こちらの七福神の中の一人

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厚塗りの大黒天。

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熱海城内のコンクリ製大黒天

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屋外の優しい色合いの大黒天の三体である。


さて、これらの大黒天の顔を比較してみよう。

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まるは食堂 大黒天

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熱海城 大黒天(小)

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熱海城 大黒天(大)

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熱海城 大黒天(カラー)

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そして、勝川大弘法横 灯篭内の大黒天のお面

いかがだろうか。
・帽子の模様
・柔和な表情
・豪快に開けた口
・福々しすぎる耳

これらにそれぞれ共通点を見いだすことができる。
前4体は祥雲作であるから、共通しているのは当然として、このお面もそれらの特徴を表現されている。
もちろん、「大黒天」という、製作者の作風が出にくいと思われる普遍的なモチーフではあるので、基本的な差異はそれほどうまれないのかもしれない。
ただ、なんというか、このお面、表現とか縮尺が一連の祥雲作品とあまりに類似している、ような気がする。
もちろん、全然違う作者、なんてことも十分ありえるが。

やはり、雲岳作の大弘法の足元で、「未発見の祥雲作の大黒天のお面」が見つかるってのは「雲岳=祥雲説」のひとつの状況証拠になる可能性があるのではないだろうか。

浅野祥雲が中津川(坂本村)から名古屋へ移住してきたのは大正13年と言われている。
そして、この大弘法が作られたのは昭和3〜4年である。
名古屋に越してきた直後の、「土でお面を作っていた」時期と重なるのである。

浅野祥雲の初期を考える上で重要な発見!てなことだと嬉しいのだが、果たしてどうだろうか。


ぜひ、みさなんも勝川大弘法にお立ち寄りの際はこの超レア隠しアイテムにも注目してみてください。

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プロフィール

Author:つるま
コンクリ像、歴史、廃線、民間信仰、などなど

写真の撮影や記事の内容には極力留意しておりますが、ご都合悪い場合はお知らせください。

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