さて、全国を行脚してコンクリート仏像を制作したとされる仏師・福崎日精。
筆者がその存在を認識した時、まだ氏は幻のような存在だった。
【過去記事】恵那峡さざなみ公園周辺コンクリ像についての考察(2015年1月)
筆者が初めて写真の中に福崎氏の姿を捉えたのは、さらに調査を続けた約1年後のことであった。
【過去記事】恵那峡再訪3:福崎日精との邂逅?そして残される謎(2016年2月)
この時は、福崎氏の写真を発見しただけでも大発見であった。
それから5年近く。
調査を続けるうち、様々な奇跡的な出会いが重なり、なぜか最初の調査地であった勝川大弘法大師の建立者宅で、福崎氏の写真を大量に発見するということに至った。
これまでの調査から、おそらく福崎氏は文通が大好きで、全国各地から旧知のみなさんに写真や手紙を送っていたのだろうと推測される。氏の死後50年近くが経過し、残された実物の手紙は多くはないだろうと思われる。
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さあ、今回は、大収穫の山口悦太郎氏アルバムの中から、福崎日精と思われる人物が映った謎のコンクリート像写真について、一挙大放出である。
ここに紹介する5枚の写真、全て撮影場所がまだわかっていない謎の写真である。
どれもアルバムにはキャプションがなく、手がかりもない。
全ての写真を過去にツイッターで紹介したが、特定には至っていない。
まず1枚目。

観音像と4名の人物である。
どこかの庭に設置されたものだろうか、木々と家の軒先が見える。
左から2番目の人物は(ほぼ間違いなく)福崎日精氏。
そして、一番右は山口悦太郎しであると思われることから、悦太郎氏の行動範囲である愛知近郊ではないかと推測している。

コチラは写真の中にも全く情報がない、地蔵菩薩像である。
塀の前に建てられた、典型的な福崎日精顔の地蔵菩薩像、どこかのお寺にあるのだろうか。

コチラは地蔵菩薩坐像と、記念写真だろうか。
左上には見慣れたヒゲメガネの人物。
半分以上が子供たちであるが、もし戦後の写真であれば、まだこの中に映った方がご存命である可能性も十分あるだろう。
一番前の子供の座った木箱のラベルから調査を試みた方もいたが、特定には至っていない。

コチラはおそらく先ほどのものとは異なる地蔵菩薩坐像。
ツタ?か崖のような背景に、福崎氏とご住職らしき方が並んでいる。
地蔵菩薩像をよく見ると、左手には鉄筋が見えている。
製作中の記念写真だろうか。これもどこかのお寺であると思われる。

そして最後はこの写真。
どこかの山門と仁王像。
これまでの写真より、かなり多くのヒントが隠されているように思うが、特定には至っていない。
この写真についてはツイッターでも有力な情報をいただいた。
よーく見ると、写真の左下隅には「Furukawa SASEBO」の文字が入っている。
これは、佐世保に戦前あった「古川写真館」ではないかと思われた。
そして、映った僧や山門の様子、紋などから、浄土宗のお寺ではないかということだった。
しかしながら、もう一つ、かなり気になる情報があった。
もしこれが戦前の佐世保の写真だとすると、その現存は望めないのではないか、ということだった。
実は、軍港を抱えた佐世保は、太平洋戦争で壊滅的な被害が出ているのだ。
この写真が佐世保であると確定したわけではない。
たまたま佐世保の写真館で現像しただけなのかもしれない。
いかがだろうか。これらの5枚の謎の写真。
いく先々で現れる所在不明のこれらの写真は、私にはまるで福崎氏からの挑戦上のように思えた。
これらの所在が判明すれば、福崎日精氏の足跡のさらなる解明につながることは間違いない。
当ブログでは引き続きこれらの写真の情報を首を長くしてお待ちしております。
《つづく》
このアルバムには、まだまだ所在不明の写真が収められていた。
そのうちの一枚がコチラ。

観音像と、3人の人物が写った写真である。
左側の人物は、例によって福崎日精氏のように見える。
私の目には、かなり若い頃の写真に似ているように見えた。
(この辺り、福崎氏の写真の順を追った検証はいずれやってみたいと考えている。)
さて、この写真には、悦太郎氏の直筆キャプションが残されていた、

解読してみよう。
「神奈縣中郡大磯山王町化粧坂下ニ安置 作者 福崎氏 清田髙義氏 寄進」
と読める。
やはりこの写真に写る人物は福崎氏!
しかし、 神奈縣中郡大磯山王町化粧坂 とは一体どこなのか。
化粧坂、大磯などのキーワードで検索すると、おそらく「神奈川県中郡大磯町」であろうということは想像がついた。
だが、そこからの特定はまたもや難航した。
そして、またもや私はこの写真をツイッターにアップした。
それが、この写真を発見した2019年3月のこと。
そして新たな謎も。これまでにみたことがないコンクリート観音像の写真。
— つるま (@clane_2015) March 2, 2019
神奈川県大磯と読める。一番左は若き日の福崎日精氏。
ここはどこだ?!#コンクリート像の謎#福崎日精 pic.twitter.com/As6O0EF0D3
すぐに、全国のフォロワーの皆さんから、いくつかの情報がもたらされた(本当にいつもみなさんの知識と行動力に驚かされます)。
ひと月ほど前に東海道旧道歩きでこのあたりを歩いたのですが、松並木は残っていましたが、周囲は住宅街で寺社には気づきませんでした。山王町・化粧坂下とありますから、現行のR1に旧道が交わるあたりでしょうか。
— 金環蝕 (@oh__muku) March 2, 2019
どうやら、「化粧坂」は神奈川県大磯町のあたりで良さそうだ。
そしてこんな情報も。
お稲荷様か何かかもしれず違うかも知れませんが、前に歩いた時、化粧坂の途中に何かの土台だったものらしきものが残っていました。
— 真っ黒ニャンコと僕 (@kuronyankotobok) March 20, 2019
像の場所が特定される事祈っております。
?!なんと、推定される場所あたりに、土台だけが残されている?!
これはまた興味深い。
そして、やはり像は失われてしまったのか・・・と思われた。しかし。
投稿から3ヶ月以上たったある日、思わぬ有力な情報がもたらされた。
それはフォロワーのこんふぇいとうさんによるリプライだった。
この観音様でしょうか?
— こんふぇいとう (@confeito10) July 16, 2019
神奈川県中郡大磯町生沢961
『東昌寺』 pic.twitter.com/YAc5zFwAlQ
Googleマップからです。
— こんふぇいとう (@confeito10) July 17, 2019
大磯町のお寺(の写真)を片っ端から見ていったら、東昌寺のところで、出てきました。
『写真』を選択すると出てきます。 pic.twitter.com/va2K0Lyv6K
まさにこの観音像!!!
なんと、今回は、Google Mapで大磯町のお寺を片っ端から見ていったという手法で発見に至ったというのである。
本当に恐れ入ります。
そして、当初に有力な土台情報をいただいた真っ黒ニャンコと僕さんは、現地に足を運んでいただいた。本当にありがとうございます。
観音様はというと、リプライで拝見した東昌寺さんに無事にいらっしゃいます。
— 真っ黒ニャンコと僕 (@kuronyankotobok) August 9, 2019
欠損等はない模様。
台座はまるっと違うので観音様だけが移動している、のはいいのですが、東昌寺に移した際のプレートは作者が寄進者た思わしき清田万吉氏になっている。 pic.twitter.com/wlhTFg9MH9
観音像は、大磯町・東昌寺に現存した!!
そして、こんな追加情報も。
昭和32年となっているのは移設された年なのかもしれない。
— 真っ黒ニャンコと僕 (@kuronyankotobok) August 9, 2019
山王は山王町、清田万吉氏は化粧坂寄進者の清田高義氏のご関係者なんだろうな。
東昌寺さんは先代ご住職の前からあったので現ご住職は像の詳しい事はご存知ではないとの事。 pic.twitter.com/Sjwrz2GkKn
なんと、台座は現写真とは異なり、「昭和32年 清田万吉」となっているという。
写真から見ても、おそらく建立は昭和初期であると思われるため、後年に移設された可能性も高いと思う。
そして、さらなる情報が。
大磯の図書館さんよりご連絡をいただく。
— 真っ黒ニャンコと僕 (@kuronyankotobok) September 12, 2019
化粧坂のコンクリート観音像は化粧坂の作業場にて複数製作され、そのうちの一体が東昌寺にあると「大磯町の今と昔の写真」という書籍に記載され、化粧坂の写真にある像と現在も東昌寺にある像は別のものである可能性があるそうだ。
作業場があったのか~。 pic.twitter.com/hZVdXRU9DW
なんと、真っ黒ニャンコと僕さんが、大磯の図書館で調査し、観音像は化粧坂の作業場にて複数製作されたと記載されているというのだ!
しかも作業場があったのだという。
これは福崎氏によるものだったのだろうか。謎は深まるばかりである。
いずれにせよ、観音像のうち一体は、大磯町に現存していることが判明した。
製作年の特定にはまだ時間がかかるかもしれないが、神奈川県での観音像製作、これは、福崎氏の足跡の全く新しい1ページなのであった。
特定に至った皆さんの恐るべき調査力と行動力に感謝します。
本当にありがとうございました。
《つづく》
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さて、山口悦太郎氏が残したアルバムには、年代も場所もランダムに、様々な写真が貼り付けられていた。
キャプションがあるものもあれば、全くないものもある。
これまでの調査を基に場所がすぐに特定できるものもあれば、まるで見当もつかないものもあった。
まるで見当がつかない写真の一枚がこれ。

かなり大型の地蔵菩薩像である。
私のこれまでの経験から、2018年9月に現地調査を行った島原・江東寺の地蔵菩薩像によく似ていると感じた。まず間違いなく、福崎氏の作品だろう。
しかし、どこかのお寺であると推測される以外は、どこにある(あった)ものなのかさっぱりわからなかった。

なんとなく、この人物が福崎氏のような気がする。にしてもこれまでとは全く印象が違う。
そこで、また例によってツイッターを利用して、情報提供を呼び掛けた。
これもかなり大型の謎の地蔵菩薩像。
— つるま (@clane_2015) July 18, 2019
特定するには手掛かりが少ない。 pic.twitter.com/QfOwdcZU9m
しかし、今回はそう簡単には行かなかった。
これをツイートしたのが、2019年7月18日。
有力な情報がもたらされるまで、実に3ヶ月半の時間を要した。
それはある日突然もたらされた。
いつも大変楽しく拝見しています。愛知県小牧史の福厳寺にある像がよく似ているのでご存知かもしれませんがご参考までに。 pic.twitter.com/QPplIZnszr
— まゆ (@mayu0w0p) November 4, 2019
!!!
まさにこの地蔵菩薩像!!
いろんな手を尽くしてネット上を探したつもりだったが、情報提供者、まゆさんがヒットした方法は驚くべきものだった。
本当にたまたまなんですけど、google画像検索で護国観音の画像を見てたら関連画像に出てきて(笑) 形が似ているからですかね。自分でも感動しました。
— まゆ (@mayu0w0p) November 4, 2019
なんと、Google画像検索で護国観音の画像を見てたら関連画像に出てきたというのである。
護国観音は秩父・大淵寺の護国観音のことだろう。Google画像検索がこの地蔵菩薩像を関連づけてくるとは!
ついにGoogleは福崎日精作品を認識したのか?!Google恐るべし、である。
ここでもたらされた情報をもとに、私はすぐに現地に足を運んだ。

その場所は、愛知県小牧市・福厳寺(ふくごんじ)。

まさに名刹という佇まい。
その境内を見回すと、その像はすぐに姿を現した。

これぞまさに!!あの地蔵菩薩像!!!
古写真と見比べてみよう。

冒頭の古写真の像と瓜二つ
台座の高さなど、細かな違いはあるものの、像自体はまさにこの地蔵菩薩像に間違いなかった。

お顔も典型的な福崎日精顔。
また、現存する新たな像を発見することができた。
寺務所でこの像について聞くことができた。
だが、例によってわかることは、寺史に残された数行の文章から、「昭和20年代に建立された」ということのみだった。
またわからなかった。
それでも、きちんとメンテナンスされて、境内に立つその像は、他の由来がわからなくなってしまったコンクリート像よりは恵まれているのかもしれない。
そう思って帰ろうとしたところ、

ん?何か書いてある?
像の光背の裏側に、文字らしきものが見て取れた。
拡大してみよう。

前半は、建立当時の住職の名などが書かれているようだ。
そして、後半3行には「造佛師」「日精」「昭和廿四年巳亥」の文字が見えた!!
これは、福崎日精によって昭和24年に建てられたものと見て良さそうだ。

昭和24年、これまでに発見した福崎氏の写真は、昭和初期のものか、昭和30年台以降の晩年のものしかなかった。
福崎氏の印象が違って見えたのも当然かもしれない。

いずれにせよ、由来の忘れ去られた一体の地蔵菩薩像。
我々はまたひとつ、福崎日精の足跡に近づくことができたのであった。
《つづく》
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山口悦太郎氏の残したアルバムには、たくさんの見たことのない写真が収められていた。
そのうちの一枚。

阿弥陀如来像のように見える。
右から2番目の人物には見覚えがあった。

この特徴的なヒゲ
そう、まさに福崎日精その人であった。
これまでの調査から、かなり若い頃の写真のように見える。
そしてKさんのお話によれば、左から2番目の人物。

剃髪に袈裟のこの人物
この人物こそが、勝川大弘法大師を建立した山口悦太郎氏、なのであった!!
山口氏をずっとずっと追いかけながら、初めてお顔を拝見した。
Kさんによれば、高野山で修行をし、僧籍も持っていたのだという。
しかしながらこの写真、初めて見るはずなのに何か既視感が・・・

・・・ピピピピピ・・・(脳内データベースを検索する音)
チン
そうだ!!

長久手市喜婦嶽の阿弥陀如来像だ!!
この場所に立つ石碑によれば、昭和7年5月に亜炭鉱で起きた出水事故の犠牲者を悼み、昭和7年8月に建てられたものだということだった。
私は4年前のこの記事で、コンクリート像調査の中で偶然に発見したこの作者のわからない像が、福崎日精によるものではないかと推測した。
そして、その像の銘板に記載された文字。

満勝山大師殿 の文字
ここから私は、福崎日精は雲岳作、勝川の大弘法となんらかのつながりがある可能性があるのではないかと指摘した。
今まさに、そのことがこの写真によって証明されたのである!!
この写真の貼られたアルバムには、朱書きで丁寧なキャプションが書かれていた。
この達筆な文字は山口悦太郎氏の直筆だという。

解読してみよう。
「昭和七年五月五日 愛知郡長久手村喜婦嶽炭鉱十三人生埋
遭難現場安置 作者福崎氏 寄進者福崎氏 大師殿」
まさに、ここ喜婦嶽炭鉱で発生した事故を弔うために建立された像なのである。
多数の犠牲者が発生したこの事故のことは当時の新聞にも大々的に掲載されており、かなり有名な話だったらしい。
そして、像の寄進者は「福崎氏」「大師殿」とある。
つまり、福崎氏自身が製作し、寄進したと考えられるのだ。
何度もいうが、この像の銘板には製作者の名前はなく、「満勝山大師殿」とあるだけだ。
福崎氏の着用した衣服(肩章?輪袈裟?)をよく見てみよう。

ここになんと、「尾州 勝満山 ??大師殿」とあるではないか。
これはつまり、福崎氏自身が、勝川大弘法大師の建てられた、「勝満山 大師殿」と並々ならぬ関係があったことを示しているのではないか。

当時の絵葉書(製作年不詳)より。確かに「勝満山大師殿」とある。
福崎氏が、「勝満山 大師殿」と深い関係にあった。それも、昭和7年の時点で。
これは、雲岳作・勝川大弘法大師像の建立から4年しか経過していない時点なのだ。
のちに全国に巨大なコンクリート仏を次々に建立することになる、仏師・福崎日精。
その最初期に、もう一人の謎のコンクリート仏師・雲岳との関係が伺われる写真がついに発掘されたのである・・・!!
《つづく》
次回 コンクリート像を見にゆきます(仮)
昭和初期のアルバムに残された謎のコンクリート像のありかを探れ!②
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「勝川大弘法大師が持っている数珠の玉は、福崎日精が作った」

弘法大師像の左手には、確かに今も数珠が掛けられている
これは、ついに、私が5年以上にわたり追いかけてきた『雲岳』と『福崎日精』、二人の謎のコンクリート仏師が交わった決定的瞬間であった。
Kさんによれば、福崎日精氏は昭和40年ごろ、建立から35年以上経過した大弘法大師像を修復するためにこの場所を訪れたという。
そして、高齢の父親のかわりに、Kさんが福崎日精氏を手伝ったのだという。
「私もハタチぐらいの頃で、そん時は大きい先生と一緒に大阪まで塗料を買いに行ったんだわ。一斗缶を何本も買って電車で一緒に買ってきた。結構面白い人でよ、いろんな話をしてくれたわ。」
「先生が器用にコンクリで数珠の玉を作りゃーすもんで、『先生、じょーずだねえ』って言ったら笑っとったわ。私も先生の横で見様見真似で鉄砲玉みたいなもの作って遊んどった」
というエピソードをお聞きすることができた。
福崎氏の死後も、Kさんが福崎氏の奥さんのもとを訪れるなど、家族ぐるみの交流は続いたのだという。
「先生の奥さんは、軍の偉い方の未亡人で、再婚だった。とても上品な人だった」という。
そして、奥さんの住まいは「滋賀県醒井にあった」という。
醒井!!
この言葉を聞いて、私は『恵那市史』にあった記載を思い出していた。
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作者の福崎日精は当時修業僧で各地を廻り仏像の造立をしていた(後滋賀県醒井町地蔵院の僧となった。また妻木の神馬及び昭和四〇年多治見市戦没者慰霊塔の観音像を造立した)。
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やはりどこかの時点で、福崎日精は滋賀県醒井に住んでいた。それも奥さんと共に。
初めて聞くエピソードの数々に私は驚きと興奮が隠しきれなかった。
しかしながら、
「ほんでも、アルバムの写真のことはよーわかれせんのだわ。私がわきゃー頃のことだで。興味もなかったし。
兄貴が生きとったらもっとよう知っとったけど、兄弟で生きとるのは私だけなんだわ」
「手紙やなんだかもあったけど、家立て直す時にほかってまっただと思う」
とおっしゃった。
つまり、K氏のエピソートは青年期以降の昭和40年ごろの話であり、それ以前のことはやはり謎に包まれたままなのであった。
悦太郎がなぜ大弘法大師の建立を『雲岳』なる人物に依頼したのか。
福崎日精といつ時点から、どのように接点ができたのか。
Kさんの生まれる前、昭和初期の出来事であり、Kさんも父親から詳しい話を聞いているわけではなかった。
それでも。
アルバムに収められた数々の写真という、なによりの動かぬ証拠を目にした私には、ここからまた福崎氏の新たな足取りを掴めるだろうという確信に近いものがあった。
私のこれまでの福崎氏に関する研究成果や浅野祥雲大全の存在を紹介しながら、許可をいただき、アルバムに収められた写真を撮影していった。
私は、突然の訪問に対して快く応対していただいたKさんにお礼をいい、Kさん宅を後にしようとした。
私を見送る玄関先で、一服前のKさんはタバコに火を付けながらこう言った。
「そういやあ、先生は『五島慶太に会ったことがある』って言っとったなあ。嘘なんかいう人じゃないもんで、ホントだと思うけど」
五島慶太といえば、昭和財界の超大物。そんな人物に面会したというエピソードは、福崎氏のコンクリート像が認められていた証拠にもなるのではないか。そんなことを考えていた。
私は、再びKさん宅を訪れる約束をして、帰路についた。
充実した調査の時にしか感じることのない心地よい疲労を感じながら。
次回 コンクリート像を見にゆきます(仮)
昭和初期のアルバムに残された謎のコンクリート像のありかを探れ!前編
お楽しみに!
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