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2019. 01. 08  
《前回の続き》

佐賀県江北町での調査を終え、時刻はまだ午前。
計画ではこのまま島原半島を南下して、島原市に向かう予定であったが、急遽予定を変更し、福岡県柳川市にある等応寺に行くことにした。

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この等応寺にあるという涅槃像について、事前のリサーチではほとんど情報を得ることができなかった。
観光地にもなってないし、紹介されたページも見つけることができなかった。
お寺を訪問したというブログ記事がほんの少しあるだけ、とう状況だった。

福崎氏との関係を示すものも、3月に手に入れた福崎メモしかない。
それでも、そのわずかな情報からでも、なんだか凄そうな像であるように思えたのだ。


さて、柳川市に到着。福岡県といっても佐賀寄りに位置しており、佐賀県江北町からもそれほど遠くはなかった。
この柳川市、市内に無数の水路が走っており、目的地である等応寺も川と水路に挟まれた場所に建てられていた。

等応寺に到着。そこには・・・

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おお、なんか見えてきたぞ・・・

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どーん

すごい!!建物の上にシルバーメタリックの巨大涅槃像が乗っている
こんなのいまだかつて見たことがない。

お堂の横に看板が立っていた。

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作者 滋賀県 福崎日精先生
御丈 三十三尺
高さ 十六尺(台座より)
着手 昭和四十一年一月六日
完成 昭和四十一年七月三十一日


これは!ここからだけでもかなりの情報が読み取れる。
まず、この涅槃像が福崎日精氏の作であることが確定した。
そして、6ヶ月超の工期で建てられたこと。
さらに、昭和41年建立とある。

これまでの筆者の研究で、福崎日精氏の作品は少なくとも昭和5年から昭和44年の期間に製作されていることがわかっている。
つまりこの等応寺の涅槃像はかなり晩年に建立されたものなのだ。
そしてこの看板からはその頃、福崎氏が滋賀にいたことを示していた。


私は庫裏のチャイムを押し、ご住職にお話を伺うことにした。
事前のアポはなかったが突然の訪問にもご住職に時間を割いていただくことができた。
その内容はこうだ。

・発注者は建立当時(昭和41年頃)、2代前の住職であったおじにあたる人物。
・建立の経緯としては、門徒さん達が天草の涅槃像(※)をみんなで見に行って建立を決めたと聞いている。(※筆者補足:島原市江東寺の涅槃像だと思われる)
・自分も当時12歳くらいで、製作の様子は見た記憶がある。
・住み込みでほぼ一人で作られていた。
生ものは絶対に食べられん方だった。
・2代前のことでありこれ以上詳しいことはわからないし、記録もない。

そして、今後のこの像の行く末について、不安なことも仰った。

とても重たいコンクリート像がお堂の上に乗せられている構造上、お堂の耐震性に問題がある。
お寺の前が堤防で幅員も狭く重機が入れないので、もし改修するとしても莫大なお金がかかるため、解体する予定である。
信徒さんたちはなんとかして残したいと3Dプリンタでミニチュアを残す計画もある。


そしてご住職は最後にこう仰った。
「どうぞ自由に上に上がって中も観ていってください

え?上に上がれるの??

私はご住職に礼を述べ、再びお堂に向かった。

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お堂には「涅槃堂」と掲げられ、中には位牌が並んでいるようだった。

お堂を裏に回ると、階段が現れた。

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失礼します

ドキドキしながら登るとそこは・・・

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涅槃像の背中
だった

そして正面に回る。

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は〜い、久しぶり

親しい笑顔で話しかけてくるような、そんな優しいお顔だった。
そして、瞳の造形は、これまで何度も見てきたまごうことなき福崎日精の瞳であった。

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初めはちょっと怖いけど、意匠が凝らされた造形なのだ

ここからは、現地に行ったつもりでただひたすら涅槃像を鑑賞してほしい。

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台座に敷かれた布のような繊細な造形

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螺髪と頭を支える枕(きっとかっこいい正式名称があるはず)にも細かな造形が

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枕(仮)を正面から

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手のひらのシワも、まるで本当のお釈迦様がそこにいらっしゃるかのようだ

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そして足の裏

足の裏には紋様がある。調べてみると紋様の一つ一つには意味があり、お釈迦様の教説などが書かれている、らしい。
もちろん作者である福崎氏はそうした仏教の教えに精通していたのであろう。
素晴らしい紋様が刻まれていた。

そして足元に。。

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入り口だ!!

下からは見えなかったが、涅槃像の足元には像の中へ通じる口がぽっかりと空いていた。
手を合わせて中に進むと、そこには位牌が並んでいた。
そして、天井には再び口が。

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天井に開いた口

口から中を覗くと、何本かの鉄骨で支えてはいるものの、どうやら像の中は空洞になっているらしかった。

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裏側も丁寧な仕上げ


空洞になっているのはお堂への負荷を減らすためだろうか。
そういえば、青島・羽島で見た壊れた弁財天像も空洞らしかった。
福崎氏の像の特徴なのかもしれない。
コンクリートを繊細に使いこなす福崎氏の技術が垣間見える貴重な光景だった。


さて、この涅槃像のことを思う。
観光資源として作られたものでないにしても、これだけの素晴らしい涅槃像がまったく注目されず、そして人知れず消えて行こうとしている。
昭和41年の前半、福崎氏は滋賀から赴き、魂を込めてこの像を製作したに違いない。
コンクリート像を観光コンテンツに、とか、価値があるから残すべき、なんてことは言うつもりは毛頭ない。
それでも、日本全国に散らばる福崎氏の魂が込もった像に、福崎氏の半生に、もう少しだけ光が当たってもいいのではないか、と思う。せめて、今像の周りにいる人だけでも、建立に込めた想いを知ってほしい。

私は、そんな福崎氏の想いを、偉業を記録に留めたい、いや留めねばならない。記録、記憶が失われる前に。残された時間は少ない。あらためて、そんなことを感じた。

それにしても、素晴らしい涅槃像であった。
興味を持った方には、ぜひ解体される前にご覧になることを強くお勧めしたい。

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背中から涅槃像


さあ、いよいよこの旅も終盤。福岡を後にし、対岸の長崎県は島原半島に向かうことにした。


次回 コンクリート像を見にゆきます(仮)
島原の由緒正しき名刹の大涅槃像建立秘話!
福崎日精の謎を追う九州の旅⑤ 長崎県島原市江東寺 大涅槃像&大地蔵編
お楽しみに!!


つづく

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2016. 05. 01  
今日紹介したいのは、新たな像。
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「岡田菊次郎君壽像」(昭和24年建立)。

この像がある場所は安城市、明治用水会館という建物の前だ。
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以前この像は安城の農協敷地内にあったそうだが、最近移転したらしい。

安城の町会議員、郡会議員、県会議員を経て、安城村、安城町長として、町政の発展に尽くした方らしい。
明治用水や施設整備で「日本のデンマーク」(リンク)安城の礎を気づいた人物だそうだ。

見た感じ新しそうに見えるこの像だが、どうやら塗り直しが行われているようだ

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うしろ

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アップ

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岡田菊次郎君壽像、とある。

先ほどの記事から、岡田菊次郎(1867~1962年)が62歳の時に銅像が建てられたということなので、最初の銅像は1929(昭和4)年ごろに建てられているようだ。
そして、金属供出により取り壊され、戦後に作り直されたとある。
こ、これは、臭うぞ。


以前に紹介した、高田知文氏像(北名古屋市)もそうだった。
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この時も、昭和3年に建てた銅像を昭和24年に「セメント材」で再建したとあったのだ。


ついでなので、その他の浅野祥雲の「偉人像」を見てみよう。
浅野祥雲は幾つかの「偉人像」を建てているのだが、現存する像の中で、紋付袴を着ている全身像で、祥雲の銘の入っている唯一の像がこちらだ。
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木村新次郎先生像(中津川市・昭和28年)
こちらは祥雲が、名古屋での成功を感謝して地元の恩師である校長先生のために建てた像である。


そして、祥雲作が疑われるものとして以前紹介したこちら
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大野晃翁寿像(北名古屋市・昭和17年)


実は、今紹介した4つ、全ての像が、右手に扇子を持ち(又は持っていた形跡があり)、紋付袴の長さや帯の形状、後ろ姿がほとんど完璧と言っていいほど一致するのだ。
木村新次郎像と高田知文像なんて、色が違うだけで本当に瓜二つだ。

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「紋付袴」というある程度型の決まった衣服とはいえ、誰かが寸法を決めていたかのようにここまでピッタリと一致するものだろうか。そして、像の材質は全てコンクリートだ。 

これはどういうことか。つまり、祥雲は戦中戦後の金属供出の影響で、戦中〜戦後、コンクリ製偉人像を作る仕事を得たのではないか、という推測に至る。
そこには銘が入っていないため、誰が作ったか記憶する人もいなくなってしまっているのではないだろうか。

この仮説が正しいとすると、だ。地元の超名士の像を作るということは、祥雲は、やはり相当腕を認められていたことになるのではないか。

もう一つこの仮説を裏付けるものとして、「名古屋市長像」
昭和33年ごろに完成した、歴代の名古屋市長の全身像である。残念なことに、後年半分に切られてしまい、元の姿は写真でしか見ることができない。
これらの像は、平和公園の平和堂の中に保管されており、年4回の公開期間に見ることができる。

この中にも、実は紋付袴の像がある。

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初代名古屋市長、中村修

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3代目、柳本直太郎

この2体だ。この2体、元は全身像で、写真で見るとやはり、右手に扇子を持った直立ポーズだった。
つまり、このポーズが「祥雲のつくる紋付袴の像」のデフォルトだったと考えられるのだ。

あくまで可能性ではあるが、コンクリート製偉人像というジャンルにおいて、まだ見ぬ像を発見できる可能性はあるのではないか。
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2015. 04. 16  
にしても、そもそも尾張三大弘法って何なんだろう?
前回紹介した珍寺大道場の「珍寺大道場」愛知大弘法巡り(2005)の時点ではまだハッキリしていなかったが、瀬戸電気鐵道株式会社発行の「尾張三大弘法大師案内」なる文書があるらしく、第一は小幡緑地内にある「御花弘法」、第二は印旛の良福寺にある「開運大師」であることが明らかにされている。
ちなみにコンクリート魂にも紹介され、ともに作者不詳とされている。

というわけで、次にやってきたのは尾張三大弘法第弐番開運大師(尾張旭市)。印旛駅のすぐ隣、良福寺の中にある。
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こちらは昭和6年12月建立。

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こちらが弘法さま。先の新居の大弘法と比較しても小ぶりで着色もなくお地蔵さまのような地味な印象。

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台座は石垣のようなしっかりしたもの。

さて、とりあえず尾張三大弘法を押さえておくとしよう。次は小幡緑地へ向かいます。
2015. 02. 03  
次に見に行った像がこちら、高田知文氏像(北名古屋市)。

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高田知文氏像。右側には石碑「高田知文翁の碑」。台座はもじゃ台座ではない。
インターネット上にはほとんど情報がなかったが、先の大野氏像と比べてとてもよく整備された場所に立っていた。
石碑によると、西春町の九之坪から沖村まで、幅2間の道を作った方らしい。

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正面

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後ろ姿

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台座には「昭和三年四月」の表記

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見にくいが、石碑には「・・銅像ガセメント材ニテ復旧シマシタ・・」の文字。

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再び台座を見てみる。これまた非常に見にくいが、「・・昭和二十四年十月再建セリ」とある。

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足下、これは”もじゃ台座”?

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右手には金具の一部が。扇子があった?

紋付袴+右手に扇子のモチーフは先に紹介した大野晃翁寿像についても同じである。
祥雲作と認められる中にも、中津川坂本神社の木村新次郎先生像、一部の霊神像に見られる。
これらの像、羽織の紐や袴の帯の形状もよく似ているように感じる。
この時代の人物像に共通のモチーフであるのか、それとも同一の人物が作製したものなのだろうか。

石碑にある、昭和3年に建てた銅像を昭和24年に「セメント材」で再建したとの記載も気になる表現だ。
想像するに、銅像と台座を昭和3年に建立、戦時中の金属供出で台座のみ残され、昭和24年に台座はそのままに再建したということになる。

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なんにせよ、戦後にこの辺りローカル偉人像をコンクリで作製した人物がいて、それを取り壊すことなく守ってきた地域の人々がいた。
戦前戦後にこの立像ムーブメントがこの辺りにあったのだとすれば、まだ見ぬローカル偉人像はどこかに潜んでいるのかもしれない。
2015. 01. 22  
コンクリ魂を読んで、ぜひ訪れてみたいと思ったのが桃太郎神社の対岸にある「貞照寺」。

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というわけでやってきました貞照寺。
まずこのお寺、ロケーションが素晴らしい。
山と川に囲まれた急峻な土地に佇む姿が美しい。

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日本初の女優、川上貞奴が創建したとあって、芸能のご利益があるそう。
拝観者の方々も蒼々たる面々。

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芸能界にいたころの松竹からも寄進を受けている。

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そしてこれが智水観音。

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祥雲作品にしては小振りだが、本当に美しい顔をしている。
色は違うがコンクリ魂の白衣観音、特に白衣観音院のそれとほぼ同じ造形であるように見える。
よく見るともとは手の小瓶から水が流れるように細工がしてあったようだ。

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コチラから霊験記が見られるとのことで行ってみる。

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木で細工された貞奴の生涯が表現されている。きっと名のある木工職人が手がけているのでしょう、本当に素晴らしい出来ばえ。

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後ろからの智水観音の画。
霊験記を見てからこの像を見て気がつくのだが、この像は木曽川の上流部にあるダムに水を湛えることを表現して作られているように私には見える(ネット上にはそれらしいことは書いていないのだが)。

こちらの智水観音を「祥雲作」ではないかとネット上ではじめて発表したのはソフトリィXさん。
そのブログ、軟体リポートによれば、創建当初(昭和8年)からある像らしい。
祥雲作だとされる所以は、現在管理している成田山にも同じような色形をした童子像群があることだという。
でもなんで昭和31年の童子像と同じ色なのか?そういえば塗り直したようにも見える。
昭和8年と言えば大弘法乱立の昭和6〜7年が終わった時期。
貞奴は昭和初期の歴史において、かなりの大物だったように思う。祥雲さんは昭和8年時点で42歳。そんな人物に評価を受けていたということか。。
プロフィール

つるま

Author:つるま
コンクリ像、歴史、廃線、民間信仰、などなど

写真の撮影や記事の内容には極力留意しておりますが、ご都合悪い場合はお知らせください。

メール bluegrassnagoya@hotmail.co.jp

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