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2019. 05. 19  
それは、平成から令和になったばかりのゴールデンウイークの間に起きた。

kikuma_daibutsu

この絵葉書は、つい最近、コンクリート像の調査途上で発見したものである。

ここに写っている大仏、あまりに特徴的なビジュアルだった。
頭の上に立てられた『大佛』の文字。
肩と手のひらの上に乗った人物。

葉書には『上州菊間公園大佛實景(高サ六丈八尺)』とある。
上州、つまり上野国(こうずけのくに)、いまの群馬県だろうことは予想できた。
1丈が約3m、1尺が約30cmであることを考えると、この大仏の大きさ、20mを超えてくることになる。

しかし、一通りネット検索で調べたものの、該当する大仏は見つからなかった。「菊間公園」すら見つからない。

kikuma_kao.png
特徴的すぎるビジュアル

しかし、いつの時代に作られたものであるのか、どこに作られたものであるのか、皆目見当がつかなかった。
こんな大仏、見たことない。

そこで再び、ツイッターで情報を募ることにしたのだ。


この呼びかけに対し、この大仏が何なのかを示す史料が発見された。


この史料によれば、菊間公園は群馬県群馬郡久留馬村(現高崎市)の菊間駒吉による私設公園で、神社や各種偉人像、塑像などを並べた娯楽施設として開設したようだ。
そして、この大仏は菊間駒吉自らの手によって昭和6年に完成した
このような大仏を一人で作るって相当すごいと思う。なぜこんなすごいものが今まで知られていなかったのか。

だが、この史料からでは、実際に現在のどの辺りに存在していたものなのかはわからなかった。

事態は行き詰まるかに見えた。しかし。
現地で聞き込みを行い、場所を特定する人物がツイッター上に現れた。


すごい!
群馬県在住の「たまごとじ」さんの聞き取り調査によって、大仏、つまり菊間公園の跡地は現在、「ニューオリエンタル」なるホテルになっていることが判明した。これこそツイッター調査の醍醐味だ。ゾクゾクする。


大仏がいつまで存在したかは判然としないものの、大仏モーテルと呼ばれていた過去も明らかになった。

そして話題は、いつまで大仏があったのかに移った。
我々は、過去の航空写真から大仏の存在期間を検証した。

過去にさかのぼって現地の航空写真を見てみよう。

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現在の様子

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昭和50年

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昭和45年

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昭和42年

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昭和33年

昭和33年、昭和42年の写真には写っている鬱蒼とした森のような塊が、昭和45年にはなくなり、更地になっているように見えた。・・・そのときの私には。
これらの写真から、昭和45年以降のホテル建設とともに大仏は失われた・・・と思われた

しかし。

ここで再び、たまごとじさんから異論が唱えられた。


ん?建物が建てられた後も存在する?そんなバカな・・・?
もう一度航空写真に目を凝らした。

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これは・・・?!

確かに!!
森の中に見える大仏と思われる影、建物が建設されたあとも存在するように見える!!
昭和45年の写真に至っては、更地の中に、ポツンと巨大な影が残っているではないか!!

さらに、追い討ちをかけるように大仏に関する有力情報が入る。
情報の主は群馬県出身であり、珍スポット紹介サイトの草分け的存在である「日本すきま漫遊記」の管理人である「へりおす」さん。


すごい。実際にホテルを利用しようとしたという臨場感あるエピソードとともに、大仏のオブジェの記憶が蘇る!
なんと、ホテルが建設された後も大仏はオブジェとして残された
つまり大仏とホテルは共存していた!!

これで『大仏モーテル』と呼ばれていた理由もわかる。
大仏があったホテルではなく、大仏が存在するホテルだったのだ。
しかも、「ホテル大仏」という名称で営業していたというのだ。

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このような大仏が見つめるホテル

そう思えば「菊間公園」が「ホテル大仏」になり、その後、「東洋的」を意味する「ホテルニューオリエント」と改称したこともしっくりくる、気がしなくもない。
さらにヘリオスさんは続ける。


なんと、大仏の現役時代の記憶もお持ちであった。この大仏の中、入ってみたかったと思うのは私だけではないだろう。

このような、人々の記憶から忘れ去られた私設の大仏はまだ全国にあるのだろうか・・・。


さて、概ねこの絵葉書に写された菊間公園の変遷の謎が解けたところで、もう一つ驚くべき情報があった。
それは、高崎市の図書館でこの菊間公園の史料を調査したたまごとじさんによって再びもたらされた。




このツイートを見たフォロワーさんが、あることに気がついた。


そう、このたまごとじさんが発見した史料『久留馬村誌』には、驚くべき記述があった。

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千葉の日蓮宗仏師福崎月精の助力をうけた・・・?!?!

福崎月精・・・
福崎日精の誤植か??
もちろん『福崎月精』という別人がいることも想定しておく。しかし。

巨大仏像、昭和初期、千葉県。全てが福崎氏と一致する。
しかも、昭和4年に着工し、昭和6年に完成したとされるこの菊間大仏。
私の調査によれば、昭和5年には福崎日精はキャリアの中で最も古い像、千葉県勝浦市・津慶寺で、日蓮像を製作しているのだ。
つまり、日精氏が「千葉の日蓮宗仏師」とされる(もしくは実際にそうだった)可能性はじゅうぶんにある。

だが、当ブログの直前の記事によれば、福崎日精氏は明治38年生まれ。
菊間大仏が着工した昭和4年の時点で若干24歳。
すでに昭和4年にしてこのジャンルの仏師として地位を確立していたことになる。ここまで何年も福崎日精を追いかけ続けてきた私にも、にわかには信じがたい事実だった。。

「月精」が師匠や関係者の可能性も残されてはいるが・・・。
もしも「福崎月精」という人物が実在したとして、なんらかの関係はあるに違いないように思われた。

唐突に繋がる、菊間大仏と福崎日精。
まさか、この絵葉書一枚から福崎日精らしき人物が記載された情報に繋がることになるとは夢にも思わなかった。
福崎日精はどれだけのコンクリート大仏に影響を与えているのだろうか、近づいてきたと思われた全貌がますますわからなくなってきた。

《つづく》

《次回予告》
古いアルバムに残されていたのは菊間大仏の絵葉書だけではなかった。
大量に残された昭和初期の写真。そこに写されたコンクリート像の数々と貴重な証言。
次回、コンクリート像を見にゆきます(仮)
『交わる2人のコンクリート仏師の運命。雲岳と日精』(前編)
お楽しみに!!


今回の菊間大仏の一連の動きをもっと詳しく知りたい方はtogetter(「ビジュアルがヤバい大仏さまを捜しています。」この大仏はどこに、いつまであったのか。一枚の古い絵葉書から場所、時代を特定せよ!)をご覧ください。
後日談ももっとたくさんあります。たまごとじさんによる調査も継続中です。


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2019. 04. 10  
福崎日精氏について書かれた文献は少ない。
私の調査が不足しているだけかもしれないが、これまでに福崎日精氏の名が書かれた文献は今のところわずかに次のとおりである。

岐阜県恵那市・中津川市にまたがる恵那峡周辺のコンクリート像についての記述がある『恵那市史』、『蛭川村史』、『奥渡の丘写真集』。
佐賀県江北町の身代わり観音像について書かれた『江北町の文化財と周辺に残る遺跡』。
そして前回紹介した長崎県島原市の『江東寺史』。

しかし、そのどれもがコンクリート像の由来を中心に書かれているのみであり、像を製作した人物の出生やひととなりについてはほとんど書かれてはいなかった。

ところで、2017年の12月、青島の大観音捜索が最も話題になっていた頃、私は一つの文献を手に入れていた。

手に入れた経緯は、TBS製作の『ビビット』というワイドショー番組。
その取材班が私の自宅を訪ねて来た時、彼らは滋賀県長浜市の良畴寺での取材を終えた途上だった。
良畴寺のご住職に託されたその資料にはこうあった。

『房総の潜水器漁業史』(大場 俊雄・ふるさと文庫・1993年)
本書は、房総における潜水器開発について書かれているものだった。
託された資料は特に、千葉県勝浦市に現存する『丹所春太郎像』に関する記述が記載された部分だった。

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丹所春太郎像がある千葉県勝浦市・津慶寺

丹所春太郎は、潜水技術を向上させ、漁の発展に貢献した人物だそうだ。
その資料には福崎氏の知られざる一面が詳細に記されていた。引用して紹介したい。

勝浦市にある丹所春太郎像

「氏逝キテ茲ニ二十有余年其ノ功績ハ愈々顕ハレ氏ノ恩沢ニ浴スル者益々多シ」と頌徳碑にある。恩に報い偉功を後世に伝えるため、丹所春太郎氏像と頌徳碑を千葉県夷隅郡豊浜村川津(現在、勝浦市川津)の浪切不動尊堂前に建てたのは昭和十一年(一九三六)年七月であった。そこは津慶寺の墓地である。
 像は、千葉県夷隅郡太東地先で潜水していたころかかせた潜水服姿の春太郎の掛け物の絵をみて、現在の勝浦市出水●●●番地出身の仏師、福崎日精が造像した。(筆者注:驚くべきことに本書には住所が記されている)
 植村ゆき氏によれば、日精は断食して身を清め、この像を制作し、分骨した春太郎の遺骨を像の中に納めたという。建立の作業には日精の兄弟である清吉、巳之吉、秀正の各氏が協力している
 昭和四十九年には像のヘルメットの格子付き側面ガラス部分のコンクリートが落ち、福崎浪雄氏が修理した。
 この像は鉄筋コンクリートの像である。コンクリートではあっても、像の潜水服には本物の潜水服のように緩やかなしわも表現されて、柔らかさがでており、ヘルメット、潜水靴、磯金など細部にわたって精巧を極めて造られている。毅然として川津漁港越しに太平洋を望む春太郎の像の眼はあたかも生きている人の眼のようである。この像をみてあたたかみを感じるのは著者だけではないであろう。満三十一歳の日精の入魂の作であった。


ここから新たに分かることがいくつもある。
・丹所春太郎像は昭和11年(1936年)7月に建立された。
・福崎日精氏は勝浦市出水の出身である。
・福崎日精氏には兄弟が3人おり、製作に協力している。
・昭和11年に満31歳であった。(ということは明治38年(1905年)ごろの生まれか?)。

これは、謎に包まれていた福崎氏の出自に関するかなり有力な情報である。
コンクリート像の衣服についての記述も、これまでに当ブログで紹介してきた各地に残る氏の作品に共通した表現である。

そして本書はこう続いていた。

そのころ、日精は滋賀県坂田郡六荘村下坂浜(現在、長浜市)の、琵琶湖畔にある良畴寺で、護国阿弥陀如来像の大作を行を積みながら制作中であり、また、昭和十一年には十一月には愛媛県喜多郡大洲町若宮(現在、大洲市)の西光寺で、玉除地蔵尊像を造立している。仏師福崎日精は超俗清浄な人であり、熱烈な崇仏者でもあった。

この部分、前半で紹介されているのは、当ブログをご覧の皆様にはご存知、滋賀県長浜市・良畴寺の護国阿弥陀如来像についての記述である。

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昭和12年完成、日本一の大きさの阿弥陀如来立像(当時)

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製作中の阿弥陀如来像と福崎日精氏、ニッシュウ氏。

そして後半。愛媛県大洲市西光寺の玉除地蔵尊像。
本ブログでは初めての紹介となるこの像へは、ツイッターでの私の呼びかけに応じた中国地方に住む「れめさん」に四国の大洲市にまで足を運んでいただくことができた。

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愛媛県大洲市・西光寺

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福崎氏の特徴的な衣服の表現が見られる

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初期の福崎作品に見られるコンクリートのザラつきを残した仕上げ

(写真提供:れめ(@b1_reme)さん)

この地蔵尊像は、2018年3月に手に入れた福崎メモにも掲載されていた。
実は西光寺さんにも電話で聞き取りを行っていたが、例によって建立の経緯は全くわからなかった。

しかし本書により、この像は『玉除地蔵尊像』といい、昭和11年11月に建立されていることがわかった。

時系列に並べると、この時期、福崎日精は護国観音像(埼玉県秩父市大淵寺・昭和10年)、丹所春太郎像(千葉県勝浦市津慶寺・昭和11年)、仁王像(佐賀県有田町桂雲寺・昭和11年)、護国阿弥陀如来像(滋賀県長浜市良畴寺・昭和12年)と、全国各地に精力的にかなり大規模な像を製作していることが既に判明している。
そのうえ、四国にまで像を製作に来ていることになるのだ。

資料は丹所春太郎像について、こう続いていた。

像と頌徳碑の建設は潜水関係者の浄財によった。南総潜士相互組合の潜水夫や潜水服潜水器販売会社、潜水ポンプ製造工場、漁業組合、潜水服修理人、南総潜士相互組合がよく利用した旅館など合計八二名が寄付者として碑背に刻まれている。

まだ見ぬ千葉県のこの像。福崎氏の長いキャリアの中でも最初期に生まれ故郷に錦を飾る、氏にとって重要な作品であるように思われた。
まだ訪問することは叶っていないが、いつか訪れてみたいものである。


いずれにせよ、この資料の存在により、福崎氏の出生と年齢について判明した。
ふと考えてみると、本ブログで氏を追いかけるきっかけとなった恵那峡周辺の像は、昭和6〜7年の作である。
となると、氏はこれらの像を20代で製作したことになるのである。これもまた驚くべき事実だった。

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恵那峡周辺コンクリート像一覧

最初期にこの場所で、コンクリートでこれらの像を製作することになった詳しい経緯についてはまだ謎のままだ。
今後さらに検証を重ね、福崎氏の生涯の全貌について明らかにしたいと願っている。
2019. 03. 30  
前回からのつづき

ここで、これまでの九州の調査旅行を振り返ってみたい。
私が巡ったコンクリート像を巡った順に書き出すと、次のとおり。

2018年9月15日 長崎県松浦市・青島 青島子安観音像(昭和9年)
         長崎県松浦市・羽島 弁財天(昭和?年)
2018年9月16日 佐賀県有田町・桂雲寺 仁王像(昭和11年)
2018年9月17日 佐賀県江北町・東照寺 身代わり観音像(昭和28年)
         福岡県柳川市・等応寺 涅槃像(昭和41年)
         長崎県島原市・江東寺 大涅槃像・地蔵菩薩像(昭和32年)

ここからわかるのは、福崎氏は少なくとも3回以上は九州を訪れて像を製作している。
それぞれの像には福崎氏の銘はなく、すでに代替わりしており、記録や記憶もかすかに残っているだけだった。
それでも、それぞれの点を線で結んだとき、確かに福崎氏はかつてここに居た、ということがわかるのである。

************************************

さて、長崎県島原市・江東寺を訪問した前日に話は戻る。

事前の調査で私は、江東寺に大涅槃像と地蔵菩薩像が製作されたことについて、最も詳しい方が長崎県平戸市に住んでいるという情報を聞きつけていた。

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島原市江東寺大涅槃像(昭和32年)

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島原市江東寺地蔵菩薩像(昭和32年)

2018年9月16日、長崎県松浦市の青島を後にしたその足で、私は平戸に車を走らせたのだった。

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坂の多い街、平戸。右手に見えるのは平戸城。

ある寺院に暮らすその女性(仮にYさんとする)は、建立当時の住職の娘さんであった。
そして、江東寺に涅槃像と地蔵菩薩像を建立した人物は、住職その人であった。
つまり、Yさんは福崎氏に建立を依頼した人物の娘であり、当然、福崎氏が寺に滞在し、大涅槃像を作るそのときの様子を見ていたのだった。

「父も47年に亡くなっており、詳しいことはわからない。当時私は19歳で、若かったのでそういったことにあまり関心もありませんでした。」そう前置きをしながら、Yさんは当時のお写真を見せていただいた。

「こちらが建立当時の涅槃像のお写真、こちらが十徳延命地蔵尊のお写真です。」

そう言って見せていただいた写真には、銀色に輝く2体の像が写っていた。

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大涅槃像

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十徳延命地蔵尊

現在の写真と比べれば、その輝きは歴然である。
建立の経緯について、「どこだったかはっきりとはわからないが、父がほかの場所、どこかのお稲荷さんで福崎先生の作られた像を見て、父が建立を決めた」ということだった。涅槃像の製作には、委員会を作って資金を募ったそうだ。
そして、製作中の写真がこれだ。

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像の右側を通り抜けるこの人物こそ、在りし日の福崎日精氏だ。


「福崎先生は信貴山の方だと聞きました。涅槃像を作られる様子を見ておりましたが、針金を曲げるところもコンクリートも、先生は大きな涅槃像をほとんどお一人で作られました。こちらが作られている時の写真です。」

そう言って見せていただいた写真には、針金で骨組みを作っている一人の人物が写っていた。

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本邦初公開、製作中の大涅槃像!

この写真で骨組みを支える棒を組み立てているのがやはり福崎氏。像の中は空洞で、胎内巡りができるように作ってあったそうだ。

Yさんは製作中のエピソードも覚えていた。
「先生は朝4時に起きて製作されており、父も関心していたのを覚えています。先生は多くを語らない方でした。また、先生は晴れがましいことがお嫌いで、像の落成式のときにお姿を探したのですが、雲隠れしてしまった。前日に荷物をまとめて汽車に乗って出て行かれていたところだったのです。」
なんと、福崎氏は完成の式典には出席せず、ひっそりと帰ってしまったのだという。
そのような名声に興味がなかった、ということなのだろうか。私には、像に名前を残さない福崎氏の人となりが垣間見えるエピソードであるように感じた。

「ただ、落成式の前に撮影された写真が残されています。」
そう言って見せていただいた写真には、作られたばかりのピカピカの大涅槃像と、何人もの男性が写っていた。

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「こちらにお掛けになっているのが福崎日精先生です。」

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これが、昭和32年時点の福崎氏!!
これまでに発見したヒゲ、メガネの若き日の福崎氏とは全く異なる姿だった。

「寺には福崎先生の奥様が訪ねてこられたこともありました。私たち家族との写真が残っています」
見せていただいた写真は、また、初めて見る福崎氏の奥様が写っていた。

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左が福崎氏、右が福崎氏の奥様なのだという

製作は寺に滞在して行われたそうだ。福崎氏の食事について、Yさんは「麦ご飯と味噌汁、それも具を入れないでくれとお願いされたのを覚えています。」と語った。この話、これまでにも各地に残る氏のエピソードであった。

Yさんはさらに続けた。「ただそのせいか、先生は最後、脚気で亡くなったと先生の奥様から父にお便りがあったようです。」
なんと!福崎氏は栄養失調により亡くなったということだった。

「手紙も手元に残っていないので申し訳ないのですがそれ以上詳しくはわかりません。あとは、このような写真もあります。」

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これは・・・仁王像?とはいえ有田町桂雲寺にある仁王像とは作風が異なるように感じられた。
写真の裏側には、いささか見慣れたあの独特な自体で、このようにあった。

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『西村老大師  撮影 妙美君』

「西村というのは私の父の姓です。なので西村老大師。」
この筆跡、青島で何通も見せていただいた福崎氏の直筆にほぼ間違いなかった。
そして「妙美君」はおそらく・・・福崎氏の奥様の名前ではないだろうか。

それにしてもこの仁王像、どこかで見たような気がする・・・。
Yさんが最初に仰った「稲荷」の言葉・・・。
この仁王像は私がまだ見ぬどこかの福崎作品に思えてならなかった。

***************************************

Yさんの父であり、建立時の住職であった西村氏は、日本全国を回る説教師であったのだそうだ。
その縁で、福崎氏の作品に出会って建立を決めたそうだ。
大涅槃像の建立には、島原に観光資源をつくるという意味もあったようだ。

「父は派手なことが好きな方でした。このようなこともありました。」
そう言って取り出した写真は、また衝撃的なものだった。

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大涅槃像とゾウ

江東寺の大涅槃像の前をゾウが歩いている写真だった。
「いちど島原に来たサーカスをお寺にお呼びしたんですよ。ゾウは仏教では特別な生き物だというご縁で。」
なんとも、住職の豪放磊落な性格が窺えるエピソードだった。

「それから、十徳延命地蔵尊の台座の『和』の文字、あちらは実は三笠宮殿下さまにお書きいただいたものなんです。父が東京時代のツテで、無謀にもお願いしたのです」

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確かに、『崇仁』親王の名が書かれている!!

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前回の記事で気になった地蔵菩薩像の台座の文字は、なんと、三笠宮崇仁親王の書かれたものであった。

「私からお話しできることは以上です。福崎先生の記録を残す、尊い活動をしていらっしゃいますね。お力になれれば良いのですが。」
Yさんからのありがたい言葉をいただき、私はYさんに謝辞を告げ、平戸を後にしたのだった。


島原の名刹で、観光地とするためのコンテンツとして企画された大涅槃像。
そして三笠宮殿下に揮毫を依頼した十徳延命地蔵尊。
それらを製作するために奈良から招聘され、高名な仏師・福崎日精。
名刹の住職も感心するほどのストイックな製作スタイル。

いかがだろうか。昭和32年、島原を舞台にした、これまで知られていなかった福崎日精氏の活動の一端を垣間見ることができた。今回の調査で、福崎日精氏のひととなり、そして建立に関するエピソードがいくつも発掘された。

青島の子安観音に導かれた今回の旅。九州編はひとまずこれで終了となる。


福崎氏の、自分の名を残すことをよしとしないそのスタイルが、すなわち彼の名が現代に大きく残されなかった理由なのではないだろうか。そして、今となってはそのほとんどの場所で、氏の『偉業』は忘れ去られ、古びたコンクリート像だけが残さ、壊されようとしている。

繰り返しになるが、私は福崎氏の作品を保護したり、観光地として評価しようという訳ではない。維持には当然お金もかかる。
ただ、私は各地に点在する、福崎氏の人並み外れた情熱と桁外れの信仰心の塊であるコンクリート像とそのエピソードを蒐集し、ひとつの体系として紹介できればそれでいいのだ。コンクリートだからという理由、歴史が浅いからというだけで、その像に込められた希望や想いを忘れ去って良いのだろうか。

まだ謎は残っている。まだ見ぬ福崎氏の作品、エピソードを求め、私はまた旅に出ようと誓うのであった。


《福崎日精の謎を追う九州の旅 これにて完結》


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2019. 03. 24  
《前回からの続き》

さて、また随分と間が空いてしまったが、この旅の最終目的地である、長崎県島原市江東寺へ。

福岡県柳川市からの道順は、フォロワーさんに教えていただいたルートである有明海フェリーで向かう。

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彼方に霞むは島原半島

さて、45分そこそこで対岸の多比良港に到着。
ここからは車で目的地、江東寺へ向かう。
あの雲仙・普賢岳を右手に眺めつつ海岸道路を行くと、島原市内に到着。
地図によれば、江東寺はかなり街中に位置しているように見えた。

コインパーキングに車を止め、街中を歩くと、すぐに「ねはん像」の看板が見えた。
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この道を、迷わず行けよ、行けばわかるさ

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100m先には涅槃像が・・・

看板に誘われ歩を進めると、気づくとなぜか商店街にいざなわれた。

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まるで洋品店か和菓子店でも紹介するかのように、その看板は現れた。

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江東寺、営業中

島原市中心部の商店街のど真ん中にそのお寺の入り口はあった。
この江東寺、島原の中でも特に由緒あるお寺さんである。
永緑1年(1558年)開山、江戸時代には島原城主松倉氏の菩提寺として島原藩の重要な枠割を担ったのだという。

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見事な山門

さて、山門をくぐると、右手に目当ての大地蔵菩薩像が見えた。

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もともとシルバーに彩られていたのであろう、塗装がやや剥がれている箇所もあり、劣化が見られる。
それでも、かなり大きな、見事な地蔵菩薩像であった。

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鋭い眼光と福々しいお顔はまさに福崎作品のそれ

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細かな造形も福崎作品のそれである


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台座に彫られた、意味ありげな「和」の文字


ひとしきり地蔵菩薩像を堪能した後、この旅で私が最も見たかった像のひとつ、「大涅槃像」へ向かう。

本堂前を横切り、墓地の方へ。

ついに対面。

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ダークブラウンでまとめられたシックな涅槃像さま。

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お顔も見事。

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仏足石の紋様も美しい。

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後頭部の細かな造形。

それにしても素晴らしい出来栄えの像である。
しかし、こちらの大涅槃像にも、地蔵菩薩像同様、劣化がみられるのが少々気にかかった。ほかの場所で聞いたように、これだけの巨大な像は補修が難しい事情があるのかもしれない。

そんなことを思いながら熱心に大涅槃像の写真を撮影していると、掃き掃除をされていた若いお坊さんに「つるまさんですよね?」と声をかけられた。
なんと、私のツイートで動向を把握していただいていたのだという。

早速本堂にご案内いただき、ご住職にお話を伺うことができた。

こちらの江東寺さん、実は事前に電話でもお話を聞いており、ここからの情報は事前電話と、当日のものを合わせたものとなっている。

涅槃像と地蔵菩薩の建立経緯について、概要はこうだ。
「建立したのは2代前の住職であり、建立の経緯はわからない。ただ、これに少し載っていると思います。よろしければ差し上げます」

そう言って、差し出された書籍『江東寺史』にはこうあった。

涅槃像(説法涅槃大佛像)
涅槃とは、煩悩の火を焼きつくして智慧が完成したさとりの境地を指す言葉であるが、釈尊の入滅を指す言葉としても用いられる。
この像は、釈尊が悟りを開かれてより四十五年間の説法の旅を終えられ故郷に近いクシナーラの沙羅双樹の下で入滅(涅槃)に至るまで説法を続けられた最後の尊いみ姿である。
當山二十八世太成禅光和尚、松倉、板倉両公追善のため発願して建立さる。
造像奈良信貴山佛子道場主 福崎日聖師文字通り精進潔斉、全く独力による造像である。
昭和三十二年十二月完成、全長八米余、高さ二米、鉄筋コンクリート造り涅槃像としては、日本最大のもので、足裏に佛足石の紋様が刻まれているのも最初である。
頭部に信者による写経壱万部を納め、台座は歴代住職の納骨堂となっている。(原文ママ)


福崎日聖師となっているの日精氏の誤字であると思われる(像の横の看板には同文が掲載されており、日精となっていた)。
「奈良信貴山佛子道場主」とあるので、昭和32年の当時は福崎氏は信貴山にいたことになる。
そして、この8mあまりの涅槃像を独力で製作した。
「頭部に信者による写経壱万部を納め」とあるのは、青島に残されていた福崎日精氏のハガキの内容と一致することになる(観音様の見護る島④ 〜福崎日精氏からの手紙〜参照)。

そしてご住職はこう言った。
建立当時の住職の娘さんが一番詳しいと思います。その方は現在平戸にいらっしゃいます。」
なんと、この像について詳しい方がいらっしゃる、それは、建立時の住職の娘さんであるという。


実は、この旅前日、松浦市青島から有田町桂雲寺への途中、私は長崎県平戸市に立ち寄っていた。
それは、ここ江東寺さんの大涅槃像を建立した住職の娘さんであるYさんのもとを訪問するためであった。

《つづく》


次回予告
長崎県島原市江東寺 大涅槃像&大地蔵編 後編 
島原市江東寺の大涅槃像と大地蔵菩薩像建立の秘密。

乞うご期待!!
2018. 12. 29  
《前回の続き》

2018年9月17日。

調査旅行も折り返し地点を迎え、3日目朝。
今日の調査先はまず、佐賀県江北町にある曹洞宗のお寺、東照寺だ。
ここには「身代わり観音」なるコンクリート像があるという。

佐賀県観光連盟のホームページ内にも「福崎日精」の名とともに紹介されており、観光地としても一定の評価を得ているようだ。
https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=184

JR長崎本線と並行して走る国道34号をずんずん行くと、醫王山東照寺に到着。

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山の中腹に白く輝く観音像が見える。

私が初めてこの観音像の存在を知ったのは、当ブログでお馴染み、珍寺大道場の記事である。
身代わり観音/佐賀県江北町 − 珍寺大道場
2006年に書かれたこの記事を読むと、筆者の小嶋氏にとって、この場所は「仏師・福崎日精」を意識した重要な場所であるようだ。
私自身も、このサイトのこの記事を初めて読んだとき、「福崎日精」なる人物について興味を持つことになった。


さて、観音像に足を進めてみよう。

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東照寺山門に到着


山に向かって坂道を進む。
息を切らせて階段を登るとそこには・・・・

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よくぞ参ったな

身代わり観音像の登場である。


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どーん。身代わり観音像の登場!


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正面から

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右から

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左から

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衣服は既視感のある、コンクリートとは思えない繊細な表現

なんだろう、この圧倒的存在感。
階段を上って正面から堂々とこの威圧感を放って登場する、まるでRPGのラスボスにでも出会ったような、そんな感覚だった。

ふくふくしいお顔、ゴテゴテした宝冠、精緻な衣服の表現、そのどれもが仏師・福崎日精の作風である。

腰を掛けているような、半跏の姿の観音像は珍しいそうで、判明している福崎作品の中でも他に類例はない。

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さてここで、江北町役場に事前に問い合わせをして得た観音像についての資料を紹介したい。

「江北町の文化財と周辺に残る遺跡」平成11年7月発行
 東照寺の裏山にある身代わり観音像は、東照寺19世洪範義彰和尚が、かつての本田大和守昭雲公[平治2年(1160)山口城主、山口昭雲公が、東照寺の前身である観音寺を建立]の観音信仰の縁起により、「七難即滅、七福即生」の功徳があると云われている観音像を、奈良生駒山の仏師、福崎日精の手によって、昭和28年(1953)7月建立したものであり、西宮三大観音の一つである。
 御尊体には銀箔が塗られ、首飾りには珊瑚をちりばめ、精細に仕上げがなされている。
 六角形の台座の高さは9尺(約3m)、台座から御尊体の高さは17尺(約5.5m)余りである。
 裏山の高所より、道行く人を穏やかな眼差しで見守っておられる。
 


とある。
資料には福崎日精の名前、昭和28年7月の建立がハッキリと明記されていた。
細かいことをいうと、私にはここに記載のある「奈良生駒山の仏師」という表現が気になった。
これまでの調べでは、福崎氏はどうやら「信貴山」に滞在し、像の製作を行っていたようなのだ。
あまり土地勘がないのでよくわからないが、「生駒山」と「信貴山」は別の場所ではないのだろうか?

そういえば。岐阜県の恵那峡を最初に訪れた時、弘法大師像の横に建てられた案内看板にもこのような記載があった。
奈良県生駒山の高名な仏師」

この時はまったく気に留めなかったが、よくよく考えると生駒山と信貴山ってベツモノなんじゃないだろうか?
混同しただけなのか、それとも私がまだ知らない事実があるのだろうか。
これについては今後の宿題としたい。
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さて、観音像周辺でひととおり撮影を終え、本堂へ聞き取り調査に向かおうとしたその時、階段ですれ違おうとしたやや高齢のご夫婦に話しかけられた。

「あなたも新聞記事を見て来られたんですか?」

新聞記事?なんのことだろう?

不思議そうに眺める私の顔を察知してか、男性が手に持った紙を見せてくれた。
それは、新聞の切り抜きだった。

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「七難即滅 にじむ慈悲深さ」

「今朝の朝日新聞の朝刊ですよ。私たちは近くの大川市に住んでるんだけど、これを見て初めてここに観音像があることを知って来たんです。」と言う。

今朝の新聞!しかも、また朝日新聞・・・。
これも何かの縁なのかな。
そう思いながら、親切に教えていただいたご夫婦に礼を言い、再び本堂に向かった。


事前に来訪を伝えてあったこともあり、本堂では老僧と奥様が対応してくださった。
いきなり訳のわからない調査に伺った失礼な私を優しくもてなしていただいた。

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老僧によれば、観音像の建立者は老僧のお父様。
老僧自身も当時、観音像を製作する福崎日精氏にお会いしたことがあるという。

福崎氏が製作することになったのは、どうやら京都の袈裟を扱う法衣店を通じて紹介があったのではないかということだ。
鉄道の便が良かった東照寺に、福崎氏は汽車に乗ってやってきた。

福崎氏は番線(針金)とコンクリートで像を製作した。砂は川砂を使ったという。
戦後間もなく、という訳でもないが、それほど裕福でもない時代。
お寺の信徒さんたちの団体は、いわゆる労力奉仕のような形で、製作のお手伝いをしたのだという。
福崎氏はかつて観音像の横にあった小屋に住み込み、像を製作したという。
そして、生ものは決して口にしなかった。
福崎氏の奥さんが訪ねてくることもあったという。


ところで、東照寺さんで観音像の建立当時のエピソードについて気になることを聞いた。
東照寺さんの床の間には、一幅の掛け軸がかけられていた。

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それは、白衣観音の足元から龍が登ってくる構図の、「龍頭観音」と呼ばれるモチーフの掛け軸だった。

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そしてその隣には立派な書の掛け軸も

実は、当初、観音像を建立する計画が持ち上がった時、この掛け軸の絵を元にして建設が始まったというのだ。それは、現在のような白衣観音ではなく、「龍頭観音」であったというのだ。
しかも、製作者は福崎氏ではなく、地元の職人さんだったという。
しかしその像はうまく作ることができず、計画は途中で頓挫してしまった。

その代わりに招聘されたのが、福崎日精氏であった。
そして、昭和28年に建てられたのが、現在の身代わり観音像であった。

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奥様によれば、観音像の修復は定期的に必要だが、不思議と修繕が必要な時に、必要な額がお賽銭で賄われるのだという。
「自分で働いて自分でお化粧ばしてくださるんですよ」と笑って仰った。

東照寺には、ほかのお寺さんと同様に福崎氏の親戚にあたる方が訪ねてきたことがあるという。この身代わり観音さまを見て、「この観音様は一番きれいに保たれている」とおっしゃったそうだ。


なんにせよ、この佐賀の地に残された素晴らしい観音像を拝観し、生前の福崎氏の貴重なお話を聞くことができた。
こうして調査の3日目は順調に幕を開けたのである。


《つづく》
プロフィール

つるま

Author:つるま
コンクリ像、歴史、廃線、民間信仰、などなど

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