FC2ブログ
2019. 09. 15  
愛知県春日井市・崇彦寺に、高さ18メートルとも言われる『勝川大弘法大師像』がある。
この像の台座の銘板には『御大典紀念 建立 山口悦太郎 昭和三年 雲岳作』と刻まれている。

このブログの当初からの目的の一つには、これらの像の作者である『雲岳』が『浅野祥雲』であるという仮説を立証することあった。
というのもこれまで、どれだけ調べても、この像は、「昭和3年に、山口悦太郎という篤志家が、私財をはたいてこの像を建立した」という情報しか得ることができなかったのだ。インターネットでも、地元の図書館でも、だ。

果たして『山口悦太郎』とは何者なのか、そしてこの像を製作した『雲岳』とは。


2019年3月。
私は再び、雲岳作『勝川大弘法大師像』のある愛知県春日井市を訪れた。

そこで私は、弘法大師像の建立者である山口悦太郎氏の息子であるKさんの所在を当たることができたのだ。
Kさんは、突然の訪問者を快く迎え入れてくれた。

私は玄関先でK氏にこう尋ねた。
「雲岳、浅野祥雲、福崎日精というコンクリート像を作った人たちの研究をしています。何か資料や写真などは残っていませんか?」

K氏の答えは予想もしていないものだった。
「ああ、福崎日精さんの観音さまなら床の間にあるよ」

はあ!?何を言っているんだ?
私は訳がわからなかった。

「上がって見てってもええよ」


K氏は私を家の中へ招き入れ、床の間にあるというコンクリート像を見せてくれた。

fukuzaki_etsutarou_2.jpg
まぎれもなく、福崎日精作、コンクリート像!!

私は、謎のコンクリート仏師『雲岳』の謎を追いかけて、ここまで来たのだ。
それが、なぜ福崎日精に繋がるのか・・・。

「この辺に転がっとる木彫りのも、先生が作ったもんだで」

K氏はそういうと、木彫りの像を無造作に床に置いた。

maria_1.jpg
福崎日精作、木彫りのマリア像?

maria_2.jpg
銘はどこにもない

「写真もどっかにしまったると思ったけど、ちょっと取ってくるわ。」
K氏はそう言うと、家のどこかへ行ってしまった。

残された私は、目の前にある木彫りの像を呆然と見つめるしかなかった。

戻ってきたK氏は、見るからに古いアルバムを二冊、手にしていた。

「これ親父のアルバムだでよ」
そう言って、私にアルバムを渡してくれた。

私はページをめくると、すぐに直感した。


あ、これやばいやつだ。


albam.jpg
既視感のあるコンクリート像たち


初めて見る写真なのに、絶対にどこかで見たことがある写真。
福崎日精氏と、その作品を収めた写真の数々だった。

中には、これまでに見たことのある写真も含まれていた。

albam_2.jpg
左上の写真!!見たことある!!

biwako_1.jpg
全てはここからはじまった、長浜市・良畴寺の初代びわこ大仏!!

福崎氏を追いかけ続ける私の目には、これらの写真は福崎氏のものであることは明らかだった。
だがK氏は、このアルバムの写真が悦太郎氏のものであるということ以外、いつ、どこで撮られたものか全くわからないということだった。
それもそのはず、K氏が生まれたのは昭和19年。
これらの写真はK氏が生まれるよりも前に撮られたものだったのだ。

しかし。
私には、ここに収められた多くの写真の場所を理解することができた。

それは、5年間にも渡って日本各地の福崎日精作品を追いかけてきたからこそわかるように思えた。

つまり、このアルバムは、福崎日精氏の建立当時と思われる写真の数々が、無造作に収められた写真集だったのだ。

biwako_3.jpg
初代びわこ大仏の開眼前の写真!!


keiunji_1.jpg
佐賀県有田町・桂雲寺の仁王像!!

oobuchi_1.jpg
埼玉県秩父市・大渕寺護国観音像


いずれも、場所はわかるが、これまでに見たことのない写真であった。

kikuma_daibutsu
前回記事の「菊間大仏」も、実はこのアルバムに収められたものだった


そして、幾つかの写真には、悦太郎氏本人が書いた文字で写真にキャプションが添えられていた。

enakyou_kannon.jpg
「岐阜県恵那峡安置 作者福崎氏 観世音」

これは、2015年1月に記事にした、岐阜県恵那市の観音像ではないか!!
恵那峡さざなみ公園周辺コンクリ像についての考察
つまり、恵那峡周辺の福崎日精作コンクリート像には、山口悦太郎氏が関わっている?
これも、これまでの調査ではどこにも出てこなかった新たな事実である。

このアルバム、新たな発見が多すぎて、情報が渋滞してしまった。まさにパニックである。

いずれにせよ、なぜこのアルバムの写真たち、つまり戦前の日本各地の福崎日精作品を、山口悦太郎氏が持っているのか。
私はK氏に尋ねた。
するとK氏はこう答えた。
「知っとるも何も、福崎先生とは家族ぐるみの付き合いで、50年ぐらい前に弘法さま(勝川大弘法大師)の修復をしたのは先生だで。いま弘法さまが持っとりゃーす数珠の玉は、先生がうちで作ったやつだで。俺その現場も見とる。」

なんだってーーーー?!

kobo.jpg
弘法大師左手の数珠は、福崎日精作????


雲岳の謎からはじまった、コンクリート仏師を追いかける旅、ここに来て過去最大のターニングポイントを迎えようとしていた。


《つづく》
スポンサーサイト



2018. 09. 22  
さて、これまでに書いたものと重複する部分もあるのだが、一旦、今までの情報を整理して、『雲岳』の謎を整理しておきたい。

銘がある像を順に紹介したい(像の名称をクリックするとGoogle Mapで像の場所を表示します)。
① 勝川大弘法大師像(昭和3年 愛知県春日井市崇彦寺 ※崇彦寺は当時「勝満山大師殿」と称した)
IMG_2471.jpg

② 勝川不動明王像+二童子(昭和3年 愛知県春日井市崇彦寺)
DSCN1108.jpg

③ 普寛霊神像(昭和3年12月 愛知県日進市岩崎御嶽山)
IMG_9590.jpg

④ 小野道風像(昭和4年4月 愛知県春日井市観音寺)
DSCN1132.jpg

⑤ 弁財天像(昭和4年 愛知県春日井市観音寺)
DSCN1139.jpg

⑥ 覚明霊神像(※浅野雲岳銘)(昭和4年12月 愛知県日進市岩崎御嶽山)
IMG_9664.jpg


『雲岳』の銘が残されているのはこの6体に限られる。
『雲岳』が活動した時期は前2回の記事で示した通り、昭和3〜4年のたった2年間だ。



ではそのほかに銘が無い像はどうか。
過去にこのブログで紹介した像がいくつかあるので紹介したい。

⑦ 弁財天像(愛知県春日井市勝満山大師殿)』
thumbnail_IMG_9511.jpg
昭和4年の勝川大弘法大師の開眼の時に、不動明王像とともに弘法大師の傍に配置されていたとされる現存しない弁財天像。
この弁財天像は①②と同時に開眼式を行ったこと、また⑤の観音寺弁財天と造形を同じくすることを考えると、雲岳の作品である可能性が高い。


⑧ 地蔵尊像(愛知県春日井市地蔵寺)
IMG_2629.jpg

IMG_2636.jpg IMG_2646_2.jpg
背面に『山口悦太郎』の文字が刻まれた地蔵尊像。昭和5年2月建立とあるが、寄進者が①②④⑤と同一であること、コンクリートに毛筆で銘を彫る手法、③、⑥の像とも造形が似ていることから、雲岳作である可能性が高い。

⑨ 恵那峡弁財天(岐阜県恵那市 建立年不詳)
そしてこのブログ最大の謎として何度も紹介している恵那峡の弁財天である。

IMG_1298.jpg

弁財天の衣装、龍が巻きつく構図など、⑤と⑦に共通する。特に⑦の弁財天像とは移設ではないかと疑うほど酷似している。


*************************

さて、これらの像を作った『雲岳』とは何者か。

雲岳の⑤観音寺弁財天について、寄進者が山口悦太郎でありながら、実は瀬戸電気鉄道株式会社が企画に関わっていることは既に過去の記事で報告した通りだ。


同様に、瀬戸電気鉄道株式会社が旅客の利用者を増やすために企画し、建立された像がいくつかある。
そのうちの一つ、

IMG_1935.jpg
愛知県尾張旭市退養寺にある大弘法大師像。

この像はある人物が製作した。

IMG_1921.jpg
その人物の名は、『浅野祥雲』
昭和6年に完成した退養寺の大弘法大師像は、コンクリート像を1000体以上製作した浅野祥雲のキャリアの中で、現存する最も古い像なのである。

『コンクリート魂 浅野祥雲大全(大竹敏之著)』によれば、浅野祥雲の出身地は岐阜県恵那郡坂本村(現在の岐阜県中津川市美乃坂本駅の辺り)。
この周辺には浅野祥雲の作品が現在も多く残されている。

⑨の恵那峡弁財天とは同じ旧恵那郡であり、当時は国鉄中央本線と大井駅から北恵那鉄道大井線で結ばれており、この場所に祥雲の像があってもなんら不思議はない。

もう一つ、愛知県春日井市勝川大弘法大師のある崇彦寺、ここにある大黒天のお面が、浅野祥雲が名古屋に移住するころに、生活の糧として製作したと伝えられるものに酷似していることは既に過去の記事で伝えた。

つまり、『雲岳』と『浅野祥雲』には複数の共通点があり、なおかつ昭和3年から5年にかけての作品しか見つかっていない『雲岳』と、昭和6年以降の作品しか見つかっていない祥雲は活動期間がかぶっていないのだ。

これはどういうことか。

私の仮説であるが、この時期に浅野祥雲(本名・浅野高次郎)は、雲岳から祥雲に雅号を変更したのではないか。
祥雲のこの時期に何があったか。前述の「コンクリート魂」に収録されている「浅野祥雲年譜」によれば、祥雲は明治24年生まれ、昭和6年に不惑の40歳を迎えている。つまり40歳を迎えると同時に、または何かしらのキッカケがあり、高次郎は雲岳の名を捨て、祥雲を名乗るようになったのではないだろうか・・・。


*****************
ここに書いたことはまだまだ仮説の域を出ない。
今後この内容を補強する資料などを発見し、祥雲=雲岳説を立証することが、このブログ最大のミッションなのである。

状況証拠的には随分固まってきたのだが、まだまだ決定力にかける結果となっている。引き続き調査を続けたいと思う。

ご意見、ご感想、情報をお待ちしています。
2018. 08. 19  
前回記事の続き

本ブログの最初の目的であり、最大の謎であるコンクリート仏師『雲岳』の謎について、あらためて考える企画の続きです。
前回は、愛知県春日井市に存在する「雲岳」銘の残る4つの像を中心に見ていただきました。
今回は、そこから車で40分ほど、愛知県は日進市の岩崎御嶽山に行ってみることにしましょう。

岩崎御嶽山のことについては先人たちのホームページが充実していますので、興味のある方は各自お調べください。

岩崎御嶽山に実際に足を運ばれる方は、ご注意願いたい。
先人たちのブログなどでも散見されるが、筆者も初めてこの岩崎御嶽山に足を踏み入れたときは、その異様な雰囲気に畏れおののいた。無数に石碑や人の形をした像が乱立しているからだ。正直言って不気味である。
何が不気味なのかというと、ついつい我々は、乱立する石碑=墓を連想してしまうことが要因であると思う。

実は、御嶽山の石碑や像は墓ではなく、「霊神碑」や「霊神像」と呼ばれるものだ。御嶽教では、功績のあった行者を霊神としてまつり、霊魂が山に帰り大神に仕えるという考え方にもとづき山中に行者名を記した碑を建立するのが習わしなのだそうだ。

岩崎御嶽山の成り立ちについて、ごく簡単に言えば、御嶽信仰(御嶽教)の聖地である木曽御嶽山の代替として、名古屋近郊の簡易的な霊場として誕生した歴史を持つ。尾張地方では江戸時代に「覚明行者」と呼ばれる、木曽御嶽山を一般に開いた御嶽教中興の祖を輩出しており、御嶽信仰の厚い(厚かった)場所であるのだ。
昭和初期、農閑期である春と秋には木曽と岩崎にそれぞれみんなでお参り(お参りという表現が正しいかはわからないが)に行っていたという。

この岩崎御嶽山、簡易的とはいうものの、かなり広大な敷地の中に、無数に像が乱立しており、しっかりと信者さんがいらっしゃるエリアもあるが、今や管理する組織がなくなったエリアも多く、誰もその全貌を把握できていないのだという。

その中のある場所に、『雲岳』の銘が刻まれた像がある。

《コンクリ像DATA》
名称:普寛霊神像
所在地:愛知県日進市岩崎町竹ノ山
建立年:昭和3年(1928年)12月


ここ岩崎御嶽山の本殿である岩崎御嶽社からほど近い一角に、「普寛霊神」の像がある。

IMG_9595.jpg  IMG_9597.jpg
普寛行者も覚明行者とともに御嶽山を開山した人物として知られている。
その霊神像の裏に、銘がある。

IMG_9584.jpg  IMG_9585.jpg
非常に見にくいが、「昭和三年十二月」「雲岳」とある。

IMG_9600.jpg
また、その隣には不動明王と二童子という、どこかで見た組み合わせの像も並んでいる。

IMG_9588.jpg
その像を奉納した者の銘が刻まれている(「愛商組 仲仕連 カリト奉納」と読めるのだが、何を意味するかは謎である。真相をご存知の方から情報を募集したい。)

IMG_9589.jpg
またこの一角を囲む石柱には「夢の家」という屋号と、女性の名前と思われる名が刻まれている。芸妓などの名前だろうか?

IMG_9590.jpg
とにかく、この普寛霊神像、春日井市の弘法大師像と時期も近く、造形も似ているため、この『雲岳』なる人物は同一人物であると判断して差し支えないだろう。


そしてもう一箇所。
さらに奥深くの山中に、その像はある。

それは、この「覚明霊神」像である。
IMG_9664.jpg

《コンクリ像DATA》
名称:覚明霊神像
所在地:愛知県日進市岩崎町竹ノ山
建立年:昭和4年(1929年)11月


IMG_9652.jpg IMG_9651.jpg
一見すると不気味に見える像だが、目には「玉眼」と呼ばれる技法が使われているようだ。
この像、斜面の一画の最頂部に建立されており、眼下には無数の霊神碑が立ち並ぶ、一画の中で重要な立ち位置であるように思われる。

この像の銘はこう入っている。

IMG_9658.jpg  IMG_9657.jpg
「昭和四年十二月 ナゴヤカメヤバシ 浅野雲岳

『雲岳』ではなく、『浅野雲岳』とある。
つまり、雲岳の苗字は浅野であるということになる。


2018年8月現在、『雲岳』の銘が残された像はこれだけだ。
時系列で並べてみる。

昭和3年   春日井市崇彦寺 勝川大弘法大師像
昭和3年   春日井市崇彦寺 勝川不動明王像+二童子
昭和3年12月 日進市岩崎御嶽山 普寛霊神像
昭和4年4月 春日井市観音寺 小野道風像
昭和4年   春日井市観音寺 弁財天像
昭和4年12月 日進市岩崎御嶽山 覚明霊神像(※浅野雲岳銘

他にも雲岳を思わせる像は見つかっているが、『雲岳』銘が残る像はこの6体のみ。たった2年間の活動期間なのだ。
そして、一番古い像が、最も大きな18mの勝川大弘法大師である。
あなただったらそんな、名前も実績もない人物に、いきなりそんな巨大な発注をするだろうか?

昭和3年の時点で、雲岳はどんな実績があったのだろう。願主である山口悦太郎はどんなツテで仏師・雲岳の存在を知ったのか。
そして、これらの作品のみを残し、雲岳はどこへ消えたのか
謎は深まるばかりである。



次回、コンクリート像を見にゆきます(仮)「この謎が解ければあなたもコンクリート像マスター!!これまでに集めた『雲岳』の情報から人物像をプロファイル!」の巻 



※ 本ブログでは謎のコンクリート仏師『雲岳』の情報を随時募集中です。雲岳の銘が入った作品、書物などをご存知の方はぜひともお知らせください!
2018. 08. 11  
ご無沙汰しております。つるまです。
暑い日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

本日はいつもと趣向を変えて、本ブログの最初の目的であり、最大の謎であるコンクリート仏師『雲岳』の謎について、あらためて皆さんに知っていただきたいという意味で、これまでに当ブログで紹介したことも含めて、まとめ記事みたいなものを書くことにしました。

まず『雲岳』(生没年不詳)とは、愛知県西部に存在するコンクリート像の銘板などに残された仏師の名である。
かなり限られた像にのみにしかその名は残されておらず、その活動期間も昭和3年から昭和5年の超短期間なのだ。
あまたあるコンクリート像の中でも最初期に残されているにも関わらず、その完成度は高く、
彗星の如く現れ、そしてわずかな作品を残して忽然と姿を消してしまう、コンクリート像界における「東洲斎写楽」的な存在、それが謎のコンクリート仏師『雲岳』なのです。
雲岳とは一体誰なのか、この謎が解ければあなたもコンクリート像マスター、コンクリート像愛好家の中で一躍ヒーローなのであります!!!!

・・・すみません、興奮しすぎました。

とにかく、これまでに判明している『雲岳』の全てをご覧いただこうという趣旨なのです。
(この記事は2018年8月11日現在に判明している事実です。これ以外のことをご存知の方、コンクリート像の関係者の方、われこそは雲岳だ、というかたの情報を首を長くしてお待ちしております。)


まずはじめに紹介したいのはこの像。

D15.jpg

《コンクリ像DATA》
名称:勝川大弘法
所在地:勝満山崇彦寺(愛知県春日井市若草通1丁目3) 
建立年:昭和3年(1928年)
高さ:約18メートル


スクリーンショット

愛知県の西部に位置する名古屋市のベッドタウン、春日井市。
その町の西の玄関口、勝川駅から徒歩5分。

DSCN1105.jpg

「大弘法」の横断幕がはためくその名も「かちがわ大弘法どおり商店街」を抜ければ、そこに大弘法様がお待ちかね。

D2.jpg
あ、どうも。

IMG_7581.jpg
この像の台座の側面のコンクリート板に、銘が彫られている。

DSCN3405.jpg
御大典紀念 建立 山口悦太郎
昭和三年 雲岳作 とある。

この大弘法の台座には、もう一体の弘法大師像と、千体弘法がある。
ひょっとするとこの像たちも雲岳作なのかもしれない。

DSCN1113.jpg

そして、この崇彦寺内にはほかにも雲岳の作品がある。

DSCN1108.jpg
それがこちら、「不動明王&二童子」
こちらは、背面に銘がある。

DSCN3368.jpg
昭和三年 山口悦太郎立之 雲岳作

謎のコンクリート仏師・雲岳ファンとしては、この崇彦寺を押さえておかない手はないだろう。

***********************

さて、続いてやってきたのは崇彦寺から車で10分ほどの場所、同じく愛知県春日井市は松河戸町にある「観音寺」。
DSCN1150.jpg
ここには2体の雲岳作品に出会うことができる。

《コンクリ像DATA》
名称:小野道風像、弁財天像
所在地:観音寺(愛知県春日井市春日井市松河戸町824) 
建立年:昭和4年(1929年)


DSCN1132.jpg
小野道風像。
小野道風(おののとうふう)は平安時代に活躍した書家で、「三蹟」の一人。ここ春日井市松河戸町は小野道風の誕生伝説があり、昭和初期から奉賛会を組織して書道大会を実施、昭和56年には隣接地に道風記念館を開館している。

この像の建立の経緯については以前の記事に詳しく書いているのでよければご覧ください。

さて、この小野道風像の裏にも銘板が彫られている。
DSCN1136.jpg
立像 寄附主 勝川 山口悦太郎
板の左下には雲岳作とある。
建立されたのは昭和4年4月、開眼式は昭和4年の9月15日。
コンクリートに彫られた達筆な筆跡は、勝川大弘法のそれと同じである。

そしてもう一体。
DSCN1139.jpg
同じ観音寺の参道を挟んで反対側にある、弁財天像。
台座に龍が巻き付いた見事な造形のこのカラフルな弁財天像は、よく目を凝らすと台座の裏側に、

IMG_1704.jpg
雲岳の文字が。
この弁財天像、先ほど紹介した過去記事から、小野道風と同時に建立されたことがわかっているので、建立年は昭和4年である。

今回は愛知県春日井市に「雲岳」のコンクリート作品2箇所を紹介した。
次回はさらにディープなスポットに皆様をご案内します。


《次回予告》
日進市に御嶽山が?!そこに残された「雲岳」の文字とは?
次回 コンクリート像を見にゆきます(仮)「この謎が解ければあなたもコンクリート像マスター!!『雲岳』の謎まとめ」の巻《後半》 お楽しみに!!
2016. 12. 02  
このブログの初期のこと、浅野祥雲の新たな像を探していると、一体の弁財天像に行きついた。

5.jpg
恵那峡弁財天

この像は、岐阜県恵那市の大井ダムの真ん中にある小島、弁天島にある。地図はコチラ

bentenjima2.png
この大井ダムのど真ん中にある小島。

bentenjima1.png
拡大するとココです。ここに、

IMG_1272.jpg
コンクリート製の弁財天像があるのだ。

この像のことは当ブログの初期の頃に紹介した。( 浅野祥雲の謎を追え 恵那峡弁財天編 2015. 01. 23)
この像、作者の銘が入っておらず、だいぶ手を尽くしたのだが、この像の作者を突き止めるには至らなかった。
そして、この像の存在を突き止めることこそが、このブログの最大のミッションなのである。

*********************************
ところで。
以前、祥雲像修復メンバーのおいも小太郎さんから、インターネット上にこのような絵ハガキの画像が存在することを教えてもらった。

IMG_8601.jpg
(ネット上より借用)

左側は愛知県春日井市にある雲岳作『勝川大弘法』と思われる。
D15.jpg
現在の姿はコチラ

a2.jpg
昭和4年に建立された当時は傘をかぶっていなかったことがわかっている。

IMG_6201.jpg
大弘法の近くには不動明王と二童子。

さて、問題は絵ハガキの右側の弁財天像だ。
IMG_8601.jpg
その姿形は、記事の冒頭でお伝えした恵那峡の弁財天にソックリである。
なぜこの2体がセットで?という疑問はあるが、まあ恵那峡弁財天で間違いないだろうな、と思っていた。
ところが。

このたび、ネット上で情報提供を呼びかけたところ、新たな事実が判明した。
それがコチラ
thumbnail_IMG_9511.jpg
(画像はネット上より借用)

絵ハガキの下に書かれた文字をよく見て欲しい。
「中央線勝川 勝満山大師殿一願成就辨財天」と読めるではないか!

この絵ハガキの弁財天は恵那峡ではなかった!!

中央線勝川 勝満山大師殿、つまりは、
JR中央線勝川駅の近くに現存する勝川大弘法の近くに、この弁財天像があったことになる!!

そういえば!!
以前、勝川大弘法の開眼式の記事を書いたことがある。(雲岳の謎を追え 勝川大弘法再訪編 2016. 03. 18)

昭和4年4月22日の新聞、新愛知(現中日新聞)に勝川大弘法の開眼式の様子が掲載されている。
image1-4.jpg
そこにはこう書いてある。長くなるが、記事の全文を再掲したい。

勝川に建立した弘法大師の開眼入佛式
高野山東福寺両管長が臨席し
きのふ盛んに執行
愛知縣東春日井郡勝川町の山口悦太郎さんが、同町勝満山に日本一の大きい弘法大師の立像を建立したことは既報の通りであるが、この弘法像の開眼入佛式が、廿一日午後二時から勝満山で盛大に挙行された。
寒かった關係で出足がにぶったがそれでも近郷近在から續々と押しかけその數二萬と號せられ名古屋鐡道局は特に臨時列車を増發すると云ふ騒ぎであった。この日高野山總本山から管長法印大圓師、東福寺管長尾關本孝師をはじめ、来賓として愛知縣から青木道路、織田保安の両課長、堀尾縣農會長、長谷川本社調査部長、勝川町より淺井町長、井上驛長、野々山署長以下多数出席、式は可愛らしい三百人の稚児のの行列にはじまり、高野山管長の入佛讀経、東福寺管長の開眼讀経ありて後、堀尾縣農會長、淺井町長の祝辞あり。これに對し施主山口氏は一場の挨拶をなし、それより東福寺側は臺座の中に安置した千體の大師に、高野山側は側座にしつらへた不動明王、辨財天にそれぞれ讀経して四時半閉式した。餘興として棒の手、花火、餅投、(?)などがあつて非常に雑踏をきはめた



つまり、現存する不動明王のほか、この記事にある弁財天は大弘法建立当時に実在したのだ!!

thumbnail_IMG_9511.jpg
大弘法と不動明王に作者『雲岳』の銘があることを考えると、同時に建立された、現存しないこの「勝川弁財天」の作者は『雲岳』である可能性が高い。


だとすれば、遠く離れた大井ダムにあるこの瓜二つの恵那峡弁財天の作者は・・・・。
そして、昭和4年建立の勝川弁財天とどのような関係があるのであろうか。
昭和初期に突如現れた謎のコンクリート仏師『雲岳』はどこから来て、どこへ消えたのであろうか。
5.jpg


プロフィール

つるま

Author:つるま
コンクリ像、歴史、廃線、民間信仰、などなど

写真の撮影や記事の内容には極力留意しておりますが、ご都合悪い場合はお知らせください。

メール bluegrassnagoya@hotmail.co.jp

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR