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2016. 02. 23  
さて、ここまで見てきたように、福崎日精は戦後、全国に巨大なコンクリ像を建てている人物と思われる。
そして、恵那峡周辺には昭和6〜7年に建立された「福崎日精作」と推定されるコンクリ像の数々があった。

恵那峡周辺の像の特徴として共通して言えることは、

・2〜3メートルの大きさ
・着色がなくザラザラした表面
・台座などに細かなコンクリ細工
・手足の指は細く長い。
・表情はシリアスで、目が少し怖い。あと鼻の穴がデカい。
・衣服の表現が細かく、鋭い。

といったところか。
衣服について、浅野祥雲の作品に見られるようなふっくらした表現に対して、福崎作品はシワが細かく刻まれて、薄い衣が中空に浮いているような表現力の高さが伺える。
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「高徳寺 白衣観音」

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「恵那峡 白衣観音」

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さて、突然話は変わる。

細かい話はすっ飛ばすが、昭和初期の尾張北東地域のことを調べる一環で、「亜炭」というものの存在に行き着いた。
「亜炭」とは、簡単に言うと、石炭の出来損ないみたいなもので、愛知の北東部である小牧、春日井、守山、名東、長久手、日進にまたがった広いエリアで大正〜昭和初期に採掘された燃料、つまりはエネルギーの一種である。
その採掘は戦後になっても続いたが、エネルギー需要の転換、採掘業者の倒産などで昭和40年代以降、採掘跡地が各地で公害問題を引き起こすなど、やや黒歴史化している側面もある。

さて、亜炭採掘上のあった一つ、長久手市の喜婦嶽というところに、事故の慰霊のために建てられた像があることを知った。
長久手市市民記者のページ

この像についててはこれ以上ネットでも情報が出てこなかったため、実際に見に行くことにした。

愛知万博で盛り上がりを見せた長久手の、リニモの走るすぐそばの住宅街の一画に、そのエリアは忽然と姿を現した。
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こちらは石でできた地蔵尊。

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そしてこちらはコンクリート製。隣に建てられた石碑には「阿弥陀佛」とあった。

石碑によれば、昭和7年5月にここの亜炭鉱で起きた出水事故の犠牲者を悼み、昭和7年8月に建てられたものだという。
昭和7年のこの地方は今のような発展は全くなく、おそらく相当な山の中であったはずだ。

なんとなく、だ。この阿弥陀佛、なんとなくどこかで見たことがある気がする。

IMG_6180.jpg

鋭い衣服の表現、大きな鼻の穴、細かなコンクリ細工・・・。
そうだ。恵那峡周辺のあの福崎作品群だ。

さて、比較してみようか。
まず、全体像。
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喜婦嶽阿弥陀佛 全体

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恵那峡蛙薬師 全体

そして足元の台座。
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喜婦嶽阿弥陀佛の足元

そして恵那峡蛙薬師の台座を2ショット見ていただく。
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恵那峡蛙薬師の足元1

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恵那峡蛙薬師の足元2

そして仏師の特徴が反映されやすい「顔」だ。
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喜婦嶽阿弥陀佛のお顔

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恵那峡蛙薬師のお顔


どうだろうか、台座のコンクリ細工、衣服の表現、耳目や鼻の穴の大きさ、前回まで見てきた福崎日精の作品群ににた特徴を備えているのではないかと感じる。

もちろん、コンクリート像製作者がこの時代に複数おり、像のテンプレートが決まっていた、という可能性も排除できない。
ただ、ここまで見てきた限り、同じような造形力を持って、ここまで作風が似ているコンクリ仏師は果たして存在するのだろうか?という疑念もある。
また、ダム建設の慰霊として建立された恵那峡のコンクリ像群と亜炭事故の慰霊として建立されたこの阿弥陀佛に共通性を感じる。


そして、この像には銘板があった。

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昭和七年八月建之 勝川町 満勝山大師殿

勝川町の大師殿・・・あの「勝満山の弘法大師」のことか?なぜ「満勝山」かは不明だが。

D6.jpg
勝川大弘法 現在は「勝満山崇彦寺」となっている

この長久手の阿弥陀佛の横に後年建てられた石碑にも、この阿弥陀佛の寄進者として「春日井市勝川」の名を刻んでいる。
つまり、春日井市勝川の「大師殿」が、雲岳作の大弘法があるあの場所がこの阿弥陀佛を寄進しているというのだ。
福崎日精を追いかけていたら、なぜか雲岳が姿を現したのである。
一体なぜ?

それにしても恵那峡とは長久手は相当距離が離れているが、勝川と長久手も決して近いとは言えない距離だ。
しかも戦前、昭和7年時点での話だ。


もう一つ、喜婦嶽阿弥陀佛に刻まれた建立年を見てあるものを思い出した。
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喜婦嶽阿弥陀佛に刻まれた建立年

恵那峡高徳寺の崖の上の立弘法の銘だ。
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恵那峡高徳寺の立弘法のに刻まれた建立年。

この2つの銘、筆跡がよく似ている。
5.png
左が今回の喜婦嶽阿弥陀佛、右が以前に紹介した恵那峡立弘法である。

しかも建立のタイミングに一ヶ月しか差がない、ほぼ同じなのだ。
そういえばこの恵那峡立弘法の台座にも「勝川町」と刻まれていた。


まとめると、長久手で起きた産業事故の殉職者慰霊のために、恵那峡の慰霊像群と同じ作風の像が、同じ「勝川町」の名を刻んで建てられている。しかも雲岳作の大弘法の場所の名を伴って。


とすると、だ。
あくまで可能性であり、断言はできないが。
福崎日精は雲岳作、勝川の大弘法となんらかのつながりがある可能性があることになるのである。

(つづく)
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2016. 02. 09  
前3回の記事で、昭和初期の福崎日精の作品と思われる恵那峡のコンクリ像を紹介した。
恵那峡再訪‏1
恵那峡再訪2
恵那峡再訪3

ここからは、この恵那峡周辺のコンクリ像群を含めて、「福崎日精」という人物について、これまでわかっていることを検証していきたい。

福崎日精について、私の知る限りネット上で得られる情報は驚くほど少ない
いくつかの看板にはその名に「高名な仏師」なる前置きが付いているにもかかわらず、だ。
IMG_1308.jpg

ネットでの先行研究としては、本ブログが敬愛してやまない偉大な小嶋独観師による『珍寺大道場』がそのほぼ全てだ。

本来であれば筆者が直接訪れてレポートすべきであるが、あまりに日本の広範囲に渡るため、すぐには行けそうにない。
師の貴重な記事の中に福崎作品の幾つかの類例を散見することができるので、是非今回の検証の参考にしていただきたい。

大淵寺護国観音/埼玉県(昭和10年)
身代わり観音/佐賀県江北町(昭和28年)
江東寺/長崎県島原市(昭和32年)

そしてもう一つ、欠かすことができない福崎作「大弘法」が存在する。

弘願寺/新潟県新潟市


種々の情報(  )によれば、寺ができたのが昭和44年。ということは、その時期以降に建築された可能性が高い。
しかもこの大弘法、ストリップ場の跡地に建てた寺の屋上に建てられたといういわくつきの物件。いまでは廃墟に近くなっているようであるが、一度は訪れてみたい場所である。

そしてもう一つ、前々回記事にて紹介した、

戦没者慰霊平和観音/岐阜県多治見市(昭和40年)
IMG_5195.jpg IMG_5193.jpg

とにかく、福崎日精は昭和10年から昭和40年代までの長きにわたって、そして全国各地に種々の巨大コンクリ仏を建てている人物であることがわかる。

そして、珍寺大道場での「福崎日精まとめ」ともいうべき記事が

信貴山朝護孫子寺/奈良県

である。
参照させていただくには少々読み応えのある記事であるが、福崎日精の謎にお付き合いいただける方は是非ともお読みいただきたい素晴らしい記事である。

これらの記事からわかるのは、福崎日精と推定される(あくまで推定である)作品の中でも、最古のものは昭和8年であるということ。
ということは、今回の恵那峡における昭和6〜7年の作品群は、すでに知られている福崎作品の中でも最古のものと思われることになる。


恵那峡作品群をおさらいしてみよう。
前3回、記事にしてきた恵那峡周辺の福崎日精作と推定される像は以下のとおり。
恵那市(旧大井町)側にある「昭和6年に建立したという恵那市史に記述のある5体のコンクリート像」のうち、「作風の違う弁財天」と、既に壊されたという「不動明王」を除いた3体と福崎氏が宿泊した場所に造った「コンクリレリーフ」。

・白衣観音
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・立弘法
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・弘法坐像

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・ライオンレリーフ
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そして中津川市(旧蛭川町)側にある高徳寺周辺の5体。
・白衣観音
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・剣持弘法
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・蛙薬師(昭和7年建立、昭和9年開眼)
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・立弘法(昭和7年9月)
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・弘法坐像(未発見)
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今回の恵那峡コンクリ像群と、これまで判明している日本全国の福崎作品を地図にプロットしてみる。
恵那峡周辺を中心とした福崎日精作コンクリ像配置図

こうしてみると、福崎日精作品は本当に日本全国に存在することがわかる。

さて、恵那峡の周りに星型で示したのがこれまでに本ブログで紹介したコンクリ像群である。
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もはや恵那峡=大井ダムに結界でも張ろうとしていたとしか思えないほどの像の密集具合である。
恵那市側の白衣観音や立弘法の看板にあるように、『慰霊のため』にこのような配置となったのだろうか。
そしてその中心には『作風の違う恵那峡弁財天』が存在するのも気になるところだ。
5.jpg

にしても、凄まじい創作意欲である。
前回も書いたが、果たして福崎日精の一存でこんなにもたくさんの像を一度に建てられるものだろうか。

前述の『奥渡の丘写真集』にこのような記述がある。
一九三二年(昭和七年)に仏師福崎日精により現在の薬師如来像(コンクリート製)が当時の金で一千余円の一般の寄付により造られた。一九三四年(昭和九年)に開眼供養が盛大に行われた。

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つまり、蛙薬師一体だけでも千円以上のお金がかかっているわけだ。
Yahoo知恵袋による白米をもとにした計算によれば、昭和7年の1000円は約250万円ほどの価値であるという。結構な大金だ。



約2年の間ずっとこの地に留まり、これだけのコンクリ像を一人で造ったというのはやはり並大抵のことではない。
しかも、発見されている福崎作品のうち、最も初期の作品であるにもかかわらず、その完成度はどれも異様に高い。そしてそれらはほぼ建立当時のまま現存しているのだ。

果たして福崎師は、どれくらい「高名な仏師」だったのか。
誰の導きによって、なぜここへ、そしてどこから来てどこへ行ったのだろうか。
やはり、謎は深まるばかりだ。

(つづく)
2016. 02. 02  
全2回の記事の中で、恵那峡周辺のコンクリ像群について紹介した。
恵那峡再訪前編 恵那峡再訪後編

あらためて記しておくが、筆者は『浅野祥雲』の痕跡を探して恵那峡を訪れたはずだった。
ところが、いつの間にか『福崎日精』なる人物を追いかけることになっていた。そして、その人物もまたその全貌がつかめない「謎のコンクリ仏師」なのであった。


さて、実はもう2つ、前回記事に登場する寳林山高徳寺のイケメン住職に教えていただいた情報がある。
一つは、「近くの山中にもう一つ弘法大師の像があるが、藪の中にあり、道無き道を行かねばならない」というもの。
そしてもう一つ、「この地区の方がまとめた本が過去に出版されている」というものだった。

結局、今回の訪問ではもう一つの弘法大師像には辿り着けなかった。
しかし、本については、図書館にて確認することができた。これが大きな収穫だった。
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『奥渡(おくど)の丘写真集』
装丁もしっかりした本で、この辺り、蛭川村奥戸地区の歴史が網羅されている貴重なもの。
大井ダムの建設の写真や、恵那峡ランド(現恵那峡ワンダーランド)の華やかなりし頃が紹介されている。

そしてその中に、2つの写真を発見する。
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『蛙薬師開眼祭 昭和9年5月』と題された写真。
当時の寺の住職やこの村の名士の方々だろうか。この写真からは当時、盛大に開眼式が行われた様子がうかがえる。

そしてもう一枚、まだ見ぬ弘法坐像の写真を見つけた。
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おそらくはこの弘法坐像こそ、住職に教えていただいたもの、現在は山中の藪の中に埋もれているというコンクリ像と想像される。
どうやら、当時は恵那峡を橋ではなく船で渡るルートがあり、その船着場のそばに建立されたもののようだ。どうりで現在は道が無いはずだ。


さて、この2枚の写真を見比べると、一つの想像が働いた。
nissei_2.png nissei2_1.png

蛙薬師の右側に立つ人物と弘法坐像の左下に座る人物、このヒゲメガネの2人は同一人物ではないか

そして
「この人物こそ像の制作者たる『謎のコンクリ仏師・福崎日精』ではないか」ということである。

もちろんその証拠はどこにもない。が、この写真が恵那峡周辺の昭和初期のコンクリ像文化の一端を垣間見る上で貴重な資料であることは確かだ。

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なんにせよ、昭和初期に建てられた繊細なコンクリ像たちが、80年近くも風雨にさらされながら、見事にその姿を残している。制作者の技術と魂が込められた像たちは、人々に忘れ去られたいまもひっそりとその役目を果たしているのだ。


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しかし、いまだに疑問は残る。いや、疑問だらけだ。そして本ブログはその疑問を解決に近づけることこそが真の目的である。

・前回記事の繰り返しになるが、「恵那峡=大井ダムの周囲を囲むこのコンクリ像群」が何を意味するのか。
・この建立は福崎日精の自発的なものか、それとも誰かが発注したものなのか。それは一体何のために?

尾張三大弘法などにも通じる「昭和初期に観音や弘法をコンクリートで作る」という行動。それはどれほど一般的なことだったのか、はたまた特殊なことだったのか。そもそもコンクリートで像を作ることを考え出したのは誰か、「コンクリ像はどこから来たのか」という根源的な問い。
その解決に、少しずつ近づいているような、ますます深みにはまっているような。

次回は『仏師・福崎日精』について、ここまでの全ての情報をもとに考察します。
(つづく)
プロフィール

つるま

Author:つるま
コンクリ像、歴史、廃線、民間信仰、などなど

写真の撮影や記事の内容には極力留意しておりますが、ご都合悪い場合はお知らせください。

メール bluegrassnagoya@hotmail.co.jp

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