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2018. 09. 30  
前回の続き

「あったーーーー!!!」

上の方から聞こえてきた声は、ハマガワくんのものだった。

タニガワさんと私は顔を見合わせると、はやる気持ちを抑え、左ルートへ歩を進めた。

島を1/4周くらいしたところで、ずいぶんと頭上の茂みの中からハマガワくんの声がした。
「こっちったい」

タニガワさんは再び急斜面を登りはじめた。
「ここから登るったい、気をつけて!」
私も慎重にその後に続いた。
ハードなクライミングに、私は普段の運動不足を悔いた。

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えっちら

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おっちら

斜面を登り終えたところでハマガワくんが待っていた。
「この藪の中を行くったい」

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深い藪の出現

その深い藪を超えるとそこには・・・



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え?

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弁・・財天・・・・石像??


・・・いや、違う!
この小さな弁財天石像の周りに残るこのコンクリートの残骸、ひょっとして・・・

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この部分ってひょっとして・・・

ひょっとして、コンクリート製弁財天像の残骸??
特に、この原型をとどめている渦のような表現、、、この部分、あの弁財天像の写真の波の部分に似てないですか??

羽島Db_jdmCV4AAWtzl  2
この部分??

これはどういうことだ・・・?

これはつまりこの場所に立っていたコンクリート製弁財天像は既に崩壊し、替わりに小さな弁財天石像が置かれていることを意味するのではないか?


崩壊した像の残骸の中に、形を残しているものがあった。

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こ、これは・・・

これはひょっとして、弁財天像の耳ではないか?!

5
弁財天像の左耳

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そして、このコンクリートの残骸をよく見ると金網が使用されていることがわかる。
これは青島で見た観音像の破片と共通する仕様だ。

また、崩壊したと見られるコンクリート片は、外側がコンクリートで塗られており、内側に金網が使われているように見える。ということは以前の像は空洞だったということだろうか?


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小さな弁財天石像には「平成二年十月吉日 信者一同」とあった

平成2年に新たな石像が置かれているということは、少なくともその前には初代の弁財天像は崩壊していたと考えられる。
青島の観音像が解体されたのが昭和60年、再建されたのが昭和62年だ。
ほぼ時を同じくして、ここ羽島でも弁財天像は崩壊していたことになる。

4
新弁財天像の傍には酒が供えられていた。

供えられた酒はそれほど古いものではなく、ここ2、3年のうちに置かれたものであるようだ。まだこの場所に来ている人物がいるようだ。青島の誰かだろうか。タニガワさんもハマガワくんも全く知らなかった。

3

いずれにせよ、おそらく写真が撮影されたと思われる昭和初期から、80年以上が経過している。
海のど真ん中で風雨に晒され続けた弁財天像は風化し、崩壊してしまっていた。
3人は弁財天に向かって手を合わせた。



そしてもうひとつ。

話はこれだけでは終わらない。
ハマガワくんが、弁財天から10mほど離れた茂みで、何かを見つけた。

「ここにもなんかあるったい」

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ん?なんだこりゃ?

タニガワさんが持っていた鎌で手際よく周囲の雑草を刈りとる。
(タニガワさんはこんなこともあろうかと鎌を持参してきていたのだ!)
すると、石でできた祠らしきものが姿を現した。

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お参りをした後で、中を覗いてみた。

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なんだこれは・・・。
鳥居・・・となんだこりゃ??仏様か??

祠の左手に、文字があった。

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「夷?大明神 三月吉祥日 青島村中」・・・で合ってますか??

ってことは描かれてるのは大明神さま?

反対側にも文字があった。

7
「享保十二年丁未天? 大黒天」とある

享保十二年?? つまり西暦1722年である。
今から300年前、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の時代だ!
かなりの年代物の祠が姿を現した。

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屋根には・・・なんの顔だ?

この辺りあまり詳しくないので、どういう効用がある祠なのか、書いてある文字が正しいのかもよくわからない。
もし詳しい方にご教授いただければありがたいところである。
ともかく、青島の人たちが江戸時代に建てた祠なのだろう。


実は、出航前にSさんに見せてもらった集合写真、あの写真にもこの祠は写り込んでいた。

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左下に写り込む祠。

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長い間、無人島で人知れず守り神としての役目を果たしてきた弁財天と大明神。
青島に住む人々に「神域」とされていた由縁もこれらにあるのかもしれない。

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帰りの羽島は傾きかけた太陽に照らされて不思議と輝いて見えた。大活躍のタニガワさんも嬉しそう。



ミッションコンプリート!!


つづく

羽島の冒険を終え青島に戻った一行は、Sさんの貴重な資料を見せてもらうことに。
次回、コンクリート像を見にゆきます(仮) 観音様の見護る島④ 福崎日精氏からの手紙
お楽しみに!




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2018. 09. 28  
前回の続き

「羽島行きたいんけ?じゃあ今から船出すけん羽島行くとね!」
タニガワさんの申し出が、何を意味するのか一瞬わからなかった。

タニガワさん「おいば漁師やけん、船ぐらい出せると
そう言うと、タニガワさんはおもむろに港に向かって歩き出した。ハマガワくんと私は急いでその後をついて行った。

***********************************************

港に行く途中、一人の女性が話しかけてきた。

実はその女性こそが、後に重要な資料を見せていただくことになるSさんであった。
(補足しておくと、青島の人口は現在210人あまり。島の方々はみな家族のような付き合いをしているのだ。)

Sさん「つるまさんにうちの資料見せんとって持ってきたと」
右手に持つ手提げの紙袋の中には、アルバムや巻物などが入っているのが見えた。

タニガワさん「Sさん、それはあとったい、いまから羽島ば行くけん。あんたも行くとね?」
Sさん「私は行かんよ。中学生の最後にみんなで手漕ぎで行ったとが最後ったい。あそこは鳥のフンだけならよかけん、釣り人のもあるとね」
そう言いながら、Sさんは持参したアルバムの中から一枚の写真を指差した。
「これが最後に羽島に行った時に写したときの写真とやね。私が撮ったと」

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Sさんが中学卒業の思い出に、女子グループだけで手漕ぎボートで羽島に渡った時の写真だという、昭和30年代後半の写真。右後方に、弁財天像らしきものが写っている。

「こん時でも弁財天さんはもう倒れかかっとったんじゃなかろうか」
確かに、この写真は、前回記事で紹介した写真の弁財天像よりも傾いているようにも見える。

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この写真の弁財天像は、上のものと同一のものだろうか?

果たして弁財天像は今も建っているのか、それとも・・・。

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港からは羽島がよく見える。左手にすごく小さく見える島が、目標の羽島だ。

青島と羽島の位置関係は↓のとおり。
hajima.png

「とにかく、羽島に行ってみると!」

タニガワさんはおもむろに船に乗り込むと、
「早くこれば着るったい!」
と、我々にライフジャケットを手渡した。

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タニガワさん、準備万端

急展開に少々気圧され気味の私をよそに、出航の準備は着々と進む。
ハマガワくんも手際よくロープを外す。
「準備OKたい」


いざ、出航!

一行を乗せた船は羽島を目指す


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ものの数分で、あの幻とも思えた羽島が目の前に。

羽島は近年は釣り人に人気のスポットで、船着き場もいくつか整備されている。
そういえば、事前にツイッターで羽島のことを調査したところ、情報の全てが釣り人のブログであった。
しかし、意外にも生粋の島育ちであるタニガワさんもハマガワくんも、羽島へはこれまでに一度も上陸したことがないのだという。

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羽島、着岸。

実は、タニガワさんによれば、島には近づくなと教えられてきたそうだ。
神域、つまりは畏れ多い場所だというようなことを聞かされて育ったのだという。
その話を聞き、私は羽島上陸に向けて、一層気が引き締まる思いがした。

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羽島、上陸。

沖合に見えるのは養殖場。
羽島のおかげでこの辺りは波が穏やかなのだそうだ。

そして羽島。見上げると、想像以上の断崖絶壁である。

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ほえー

「これば登るったい」
そう言うと、タニガワさんを先頭に、急な岩場を登りはじめた。

誰も想像していない展開になった。
なんの装備もしていない。ハマガワくんに至ってはサンダル履きだ。
なにせ家からちょっと出かけるつもりが、無人島でロッククライミングである。

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ロッククライマータニガワさん

しかし、登りはじめてすぐに諦める声が上がる。
「ここは無理ったいね。これ以上行けん。登れそうな場所ばさがすと」

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ロードトゥ弁財天

こうして、タニガワさんは右ルート、ハマガワくんは左ルートで、登れそうな場所を手分けして探すことになった。
残された私は二人の報告を待つことになった。

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落ちたら海

二人の姿が見えなくなってしばらく、先に声がきこえてきたのは、右ルートを行ったタニガワさんからだった。
「おーい、こっちは登れるとこんばなかね!」

しばらくするとタニガワさんは別れた場所に戻ってきた。

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ふえー

タニガワさんが戻ってきて数分後、タニガワさんがハマガワくんの行方を心配しはじめたころ、
ずいぶんと上の方から声が聞こえてきた。

「あったーーーー!!!」


つづく





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2018. 09. 25  
前回記事

というわけで、福崎日精の痕跡を追いかけて、私は福岡空港に降り立った。

この旅の目的は、主に二つ。

① 長崎県の青島にかつて存在した、大観音像建立の由来やエピソードを確認すること。バズった時には建立の年や、建立の背景がいまひとつハッキリしない部分があった。それをハッキリさせたかった。

② 九州に今も現存する福崎日精氏の製作したコンクリート像(リストによれば、少なくとも4体の像が確認できる)を確認し、その写真を撮影すること。また、建立の由来やエピソード、福崎氏との関係を調査すること。


また、青島には福崎日精氏と交流があった人物がいたらしいという情報をツイッター経由でいただいていた。
特に、事前にいただいていたこの写真。

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足元に龍が巻きつき、琵琶を持つ弁財天の像。撮影年不詳。

どうやら左側の人物が福崎日精氏らしい。この像は、青島の近くの無人島「羽島(ハジマ)」という島にある弁財天像だということだった。しかし、最近この像を確認した者はなく、すでに風化しているかもしれないということだった。

この像、福崎氏の由来を知るうえで重要な気がする。それが4年間コンクリート像を追いかけてきた私の直感だった。
できることならば、この像の現在の姿も確認したい。

限られた時間の中で、どこまで調査ができるのか。不安と期待を胸に、まずは長崎県の青島に向かった。

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長崎県松浦市御厨港〜青島行きフェリー

御厨(みくりや)港から青島までは20分ほどの船旅である。

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左手に青島の姿が見えてきた。

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そして、右手に見えるあのかわいい島が「羽島」らしい。


そんなこんなで、青島上陸。

さて今回、私の青島訪問を知り、事前に案内役を買って出てくれたのは、『社団法人青島○(あおしままる)』のハマガワくん。

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青島出身、今は島を離れてサラリーマン生活中のハマガワくん

そして、青島○代表のタニガワさん。
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本職は漁師、生粋の青島っ子、タニガワさん

このお二人には、青島での滞在中大変お世話になった。
実は、青島ではこの翌日、島民全員が参加する「島民運動会」が開催されるということで、大忙がしだった。
そんななか、突然の訪問をした私のために多くの時間を割いていただいて本当に感謝を申し上げたい。


さて、挨拶もそこそこに、早速観音様へ向かうことに。

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上の方にすでに観音様が見えている。

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このような坂を登り、高台へ。

そして、

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ばーん

これが、あのコンクリート製の観音様が倒れた後に、二代目として建てられた、石でできた観音様である。
この場所が、あのバズった謎の大観音像が建っていた場所なのであった。


傍に、建立の由来が刻まれた石碑があった。引用しよう。

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子安観音像建立由来
此の度子安観音像建立につき由来を記念として残すものなり。
昭和六年より約四ケ年の歳月をかけて青島に鉄筋コンクリートによる高さ約十六メートルの子安観音像が建立されました。此の方こそ志佐町里免寿昌寺の第二十五代住職志佐鳳洲先生であります。昭和九年に完成以来、約五十有余年にわたり此の高台より部落を見おろして子供の成長及び島民を始め附近を航行する人々の安全を見護って来られました。
其の間、島内の子供は一人だに水による事故がなく、島の護り本尊として信仰をしてまいった次第です。処が昭和六十年の台風により頭部破損し修復の可能性もなく解体のやむなきに至りました。島民の観音像に対する信仰心は熱く早速復元を、との声により島民の出資を基礎として一般の寄附者の御援助を頂き昭和六十二年三月石像による子安観音像の建立となったのです。
尚、建立に関しては鷹島石工業協同組合石工青年部諸氏の若い情熱と努力の結晶であります。

昭和六十二年三月吉日
青島子安観音像建立委員会


この石碑から初代観音についてわかることがいくつかある。
① 昭和6年から9年に渡り製作され、昭和9年に完成した。
② 鉄筋コンクリートによる高さ約十六メートルであった。
③ 寿昌寺の住職、志佐鳳洲が建立した。
④ 昭和60年の台風で破損し、解体した。

しかし、残念ながらここには、「福崎日精」の文字はなかった。



さて、観音像の周辺を散策していると、台座の側面に気になるものがあった。

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ん?

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こ、、これは・・・コンクリートの破片・・・!?
タニガワさんもハマガワくんも、このコンクリート片が何なのかは知らないという。

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よく目を凝らすと、周囲の草むらのなかにもコンクリートの破片が目に付いた。

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ここにも。

そのうちのひとつのコンクリート片を拾い上げてみた。

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これは、、、ひょっとすると、倒壊した初代観音像の破片ではないだろうか。
台座に埋め込まれているものが、初代観音像の主な破片で、そのほかに周辺にも細かな破片が今も残っているのではないか。

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破片をよく見てみると、コンクリートに金網が埋め込まれているように見える。初代の観音像には金網が使われていたのだろうか。


次に、観音様の横に建てられたお堂の中へ。

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お堂の中には仏様が並ぶ。

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壁に掛けられた額縁の色あせた紙。うっっすらと和尚さんのような姿が見えるような気がした。

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そして、立ち並ぶ仏様を眺めている時に、ふと奥の一点に目が止まった。

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こ、これは・・・!
コンクリートで出来たお釈迦様の頭だけがひとつ並べられていた。
これは、もともと胴体があったものが、何かの理由で破損してしまったのだろうか。
その顔の特徴は、これまでこのブログで追いかけ続けた福崎作品によく似ているように思えた。

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観音像からは青島が一望できる眺望

青島散策を開始した早々に、いくつも興味深い発見をし、私は一人興奮していた。
もちろん、案内のお二人は私のマニアックな興味に少々引き気味であることは言うまでもない。


観音像周辺の調査が終了した頃、私はハマガワくんに、ダメ元で「羽島にも行ってみたい」という話をしてみた。
もともとハマガワくんには事前に相談していたのだが、普段は青島にいないハマガワくんにはわからないということだった。
厚かましいお願いとはわかっていたが、船上タクシーや釣り船のチャーターなど、何かしら方法はあるはずだった。
何か弁財天像の手がかりだけでも掴みたかった。

ハマガワくんとのやりとりを横で聞いていたタニガワさんが口を挟んだ。

タニガワさん「なに、羽島行きたいんけ?じゃあ今から船出すけん羽島行くとね!

はあっ!!??

つづく




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2018. 09. 23  
さて、2018年9月15日〜18日にかけて、謎のコンクリート仏師・福崎日精の痕跡を追いかけて、現地調査を行ってきた。

その調査の中で、訪問先の方から、なぜこの調査を行っているのかを問われることが多かった。
そこで、今回は、ブログ読者の皆さん、そして何より自分自身がなんのためにやっているのかを問題意識をはっきりさせるために、このブログ「コンクリート像を見に行きます(仮)」が目指すものを整理して、まとめる記事を残しておきたい。

*********************

このブログの当初から目指しているものは、
① 浅野祥雲の全作品コンプリート である。

しかし、浅野祥雲の活動初期のルーツを調べるうちにもう一人のコンクリート像製作家の名前が登場することとなった。
それが、「雲岳」である。雲岳は浅野祥雲なのではないかという疑念が生じてきた。そこで、
② 雲岳=浅野祥雲説の立証
を目指すことにした。

さらに、雲岳のルーツを辿るために研究を進めるうちに、もう一人のコンクリート仏師の存在がチラつくようになってきた。それが「福崎日精」である。

現在のところ、浅野祥雲と福崎日精の間に直接的な交流があった証拠はどこにも存在しない


しかし、当ブログでは過去の記事で次のことを指摘してきた。

❶ 雲岳の作品が密集する愛知県春日井市崇彦寺に「福崎日精の特徴を備えたコンクリート製観音像」があること。

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白衣観音像(愛知県春日井市勝満山崇彦寺 作者・建立年不詳)

❷ 雲岳作品に作品を多く発注した山口悦太郎氏が「福崎日精」にも像を発注していること

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二宮金次郎像(鍬をつく青年像)(愛知県春日井市勝川小学校 福崎日精作 昭和22年)

❸ 福崎日精の作品の特徴を備えたコンクリート製阿弥陀如来像に「満勝山大師殿」の銘があること

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喜婦嶽阿弥陀如来像(愛知県長久手市 作者不詳 昭和7年)

❹ 雲岳の特徴を備えた弁財天像の周辺に福崎日精の作品が密集していること

以上の点から、浅野祥雲(雲岳)の作品と、福崎日精の作品は全くの無関係であるとはとても思えないのだ。
特に、浅野祥雲と福崎日精の活動初期と思われる昭和3〜7年頃の活動が、この謎を解明するカギになると私は睨んでいる。


謎のコンクリート仏師・福崎日精の足取りを辿るうち、このブログでは幾つかのターニングポイントを迎えることとなった。

❶ 2016年9月に訪れた琵琶湖畔のお寺、平安山良畴寺(滋賀県長浜市)にかつて存在した27mの巨大コンクリート製大仏『護国阿弥陀如来像』(昭和12年)の作者が福崎日精氏だと判明したこと(戦前コンクリート大仏の謎を追え 滋賀長浜びわこ大仏編 前編)。
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護国阿弥陀如来像(滋賀県長浜市 平安山良畴寺 福崎日精作 昭和12年)

❷ そしてその時に良畴寺で発見した一枚の白衣観音像の集合写真が、2017年12月、長崎県松浦市の離島、青島で撮影されたものであることが判明し、大きな話題となったこと(謎の大観音協奏曲、そして新たな挑戦(1)
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❸ そして、3度目の恵那峡訪問で手に入れた福崎日精作品の一部と思われるリストを入手したこと(謎の大観音協奏曲、そして新たな挑戦(2)恵那峡再々訪問編

リスト
48種類の像などの情報が記載されたメモ(復元)

これらの出来事を通じて、私は福崎氏の足取りを追いかけることを止めることができなくなってしまった。
そして、これがこのブログ最大のテーマになった。

③ 仏師・福崎日精の生涯を解明すること


福崎日精の足取りを解明する手がかりをつかむため、私は九州に飛んだ。


つづく
2018. 09. 22  
さて、これまでに書いたものと重複する部分もあるのだが、一旦、今までの情報を整理して、『雲岳』の謎を整理しておきたい。

銘がある像を順に紹介したい(像の名称をクリックするとGoogle Mapで像の場所を表示します)。
① 勝川大弘法大師像(昭和3年 愛知県春日井市崇彦寺 ※崇彦寺は当時「勝満山大師殿」と称した)
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② 勝川不動明王像+二童子(昭和3年 愛知県春日井市崇彦寺)
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③ 普寛霊神像(昭和3年12月 愛知県日進市岩崎御嶽山)
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④ 小野道風像(昭和4年4月 愛知県春日井市観音寺)
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⑤ 弁財天像(昭和4年 愛知県春日井市観音寺)
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⑥ 覚明霊神像(※浅野雲岳銘)(昭和4年12月 愛知県日進市岩崎御嶽山)
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『雲岳』の銘が残されているのはこの6体に限られる。
『雲岳』が活動した時期は前2回の記事で示した通り、昭和3〜4年のたった2年間だ。



ではそのほかに銘が無い像はどうか。
過去にこのブログで紹介した像がいくつかあるので紹介したい。

⑦ 弁財天像(愛知県春日井市勝満山大師殿)』
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昭和4年の勝川大弘法大師の開眼の時に、不動明王像とともに弘法大師の傍に配置されていたとされる現存しない弁財天像。
この弁財天像は①②と同時に開眼式を行ったこと、また⑤の観音寺弁財天と造形を同じくすることを考えると、雲岳の作品である可能性が高い。


⑧ 地蔵尊像(愛知県春日井市地蔵寺)
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背面に『山口悦太郎』の文字が刻まれた地蔵尊像。昭和5年2月建立とあるが、寄進者が①②④⑤と同一であること、コンクリートに毛筆で銘を彫る手法、③、⑥の像とも造形が似ていることから、雲岳作である可能性が高い。

⑨ 恵那峡弁財天(岐阜県恵那市 建立年不詳)
そしてこのブログ最大の謎として何度も紹介している恵那峡の弁財天である。

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弁財天の衣装、龍が巻きつく構図など、⑤と⑦に共通する。特に⑦の弁財天像とは移設ではないかと疑うほど酷似している。


*************************

さて、これらの像を作った『雲岳』とは何者か。

雲岳の⑤観音寺弁財天について、寄進者が山口悦太郎でありながら、実は瀬戸電気鉄道株式会社が企画に関わっていることは既に過去の記事で報告した通りだ。


同様に、瀬戸電気鉄道株式会社が旅客の利用者を増やすために企画し、建立された像がいくつかある。
そのうちの一つ、

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愛知県尾張旭市退養寺にある大弘法大師像。

この像はある人物が製作した。

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その人物の名は、『浅野祥雲』
昭和6年に完成した退養寺の大弘法大師像は、コンクリート像を1000体以上製作した浅野祥雲のキャリアの中で、現存する最も古い像なのである。

『コンクリート魂 浅野祥雲大全(大竹敏之著)』によれば、浅野祥雲の出身地は岐阜県恵那郡坂本村(現在の岐阜県中津川市美乃坂本駅の辺り)。
この周辺には浅野祥雲の作品が現在も多く残されている。

⑨の恵那峡弁財天とは同じ旧恵那郡であり、当時は国鉄中央本線と大井駅から北恵那鉄道大井線で結ばれており、この場所に祥雲の像があってもなんら不思議はない。

もう一つ、愛知県春日井市勝川大弘法大師のある崇彦寺、ここにある大黒天のお面が、浅野祥雲が名古屋に移住するころに、生活の糧として製作したと伝えられるものに酷似していることは既に過去の記事で伝えた。

つまり、『雲岳』と『浅野祥雲』には複数の共通点があり、なおかつ昭和3年から5年にかけての作品しか見つかっていない『雲岳』と、昭和6年以降の作品しか見つかっていない祥雲は活動期間がかぶっていないのだ。

これはどういうことか。

私の仮説であるが、この時期に浅野祥雲(本名・浅野高次郎)は、雲岳から祥雲に雅号を変更したのではないか。
祥雲のこの時期に何があったか。前述の「コンクリート魂」に収録されている「浅野祥雲年譜」によれば、祥雲は明治24年生まれ、昭和6年に不惑の40歳を迎えている。つまり40歳を迎えると同時に、または何かしらのキッカケがあり、高次郎は雲岳の名を捨て、祥雲を名乗るようになったのではないだろうか・・・。


*****************
ここに書いたことはまだまだ仮説の域を出ない。
今後この内容を補強する資料などを発見し、祥雲=雲岳説を立証することが、このブログ最大のミッションなのである。

状況証拠的には随分固まってきたのだが、まだまだ決定力にかける結果となっている。引き続き調査を続けたいと思う。

ご意見、ご感想、情報をお待ちしています。
プロフィール

つるま

Author:つるま
コンクリ像、歴史、廃線、民間信仰、などなど

写真の撮影や記事の内容には極力留意しておりますが、ご都合悪い場合はお知らせください。

メール bluegrassnagoya@hotmail.co.jp

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