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2019. 05. 19  
それは、平成から令和になったばかりのゴールデンウイークの間に起きた。

kikuma_daibutsu

この絵葉書は、つい最近、コンクリート像の調査途上で発見したものである。

ここに写っている大仏、あまりに特徴的なビジュアルだった。
頭の上に立てられた『大佛』の文字。
肩と手のひらの上に乗った人物。

葉書には『上州菊間公園大佛實景(高サ六丈八尺)』とある。
上州、つまり上野国(こうずけのくに)、いまの群馬県だろうことは予想できた。
1丈が約3m、1尺が約30cmであることを考えると、この大仏の大きさ、20mを超えてくることになる。

しかし、一通りネット検索で調べたものの、該当する大仏は見つからなかった。「菊間公園」すら見つからない。

kikuma_kao.png
特徴的すぎるビジュアル

しかし、いつの時代に作られたものであるのか、どこに作られたものであるのか、皆目見当がつかなかった。
こんな大仏、見たことない。

そこで再び、ツイッターで情報を募ることにしたのだ。


この呼びかけに対し、この大仏が何なのかを示す史料が発見された。


この史料によれば、菊間公園は群馬県群馬郡久留馬村(現高崎市)の菊間駒吉による私設公園で、神社や各種偉人像、塑像などを並べた娯楽施設として開設したようだ。
そして、この大仏は菊間駒吉自らの手によって昭和6年に完成した
このような大仏を一人で作るって相当すごいと思う。なぜこんなすごいものが今まで知られていなかったのか。

だが、この史料からでは、実際に現在のどの辺りに存在していたものなのかはわからなかった。

事態は行き詰まるかに見えた。しかし。
現地で聞き込みを行い、場所を特定する人物がツイッター上に現れた。


すごい!
群馬県在住の「たまごとじ」さんの聞き取り調査によって、大仏、つまり菊間公園の跡地は現在、「ニューオリエンタル」なるホテルになっていることが判明した。これこそツイッター調査の醍醐味だ。ゾクゾクする。


大仏がいつまで存在したかは判然としないものの、大仏モーテルと呼ばれていた過去も明らかになった。

そして話題は、いつまで大仏があったのかに移った。
我々は、過去の航空写真から大仏の存在期間を検証した。

過去にさかのぼって現地の航空写真を見てみよう。

kikuma_ima.png
現在の様子

kikuma_50.png
昭和50年

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昭和45年

kikuma_42.png
昭和42年

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昭和33年

昭和33年、昭和42年の写真には写っている鬱蒼とした森のような塊が、昭和45年にはなくなり、更地になっているように見えた。・・・そのときの私には。
これらの写真から、昭和45年以降のホテル建設とともに大仏は失われた・・・と思われた

しかし。

ここで再び、たまごとじさんから異論が唱えられた。


ん?建物が建てられた後も存在する?そんなバカな・・・?
もう一度航空写真に目を凝らした。

kikuma_daibutsu_2.png
これは・・・?!

確かに!!
森の中に見える大仏と思われる影、建物が建設されたあとも存在するように見える!!
昭和45年の写真に至っては、更地の中に、ポツンと巨大な影が残っているではないか!!

さらに、追い討ちをかけるように大仏に関する有力情報が入る。
情報の主は群馬県出身であり、珍スポット紹介サイトの草分け的存在である「日本すきま漫遊記」の管理人である「へりおす」さん。


すごい。実際にホテルを利用しようとしたという臨場感あるエピソードとともに、大仏のオブジェの記憶が蘇る!
なんと、ホテルが建設された後も大仏はオブジェとして残された
つまり大仏とホテルは共存していた!!

これで『大仏モーテル』と呼ばれていた理由もわかる。
大仏があったホテルではなく、大仏が存在するホテルだったのだ。
しかも、「ホテル大仏」という名称で営業していたというのだ。

kikuma_kao.png
このような大仏が見つめるホテル

そう思えば「菊間公園」が「ホテル大仏」になり、その後、「東洋的」を意味する「ホテルニューオリエント」と改称したこともしっくりくる、気がしなくもない。
さらにヘリオスさんは続ける。


なんと、大仏の現役時代の記憶もお持ちであった。この大仏の中、入ってみたかったと思うのは私だけではないだろう。

このような、人々の記憶から忘れ去られた私設の大仏はまだ全国にあるのだろうか・・・。


さて、概ねこの絵葉書に写された菊間公園の変遷の謎が解けたところで、もう一つ驚くべき情報があった。
それは、高崎市の図書館でこの菊間公園の史料を調査したたまごとじさんによって再びもたらされた。




このツイートを見たフォロワーさんが、あることに気がついた。


そう、このたまごとじさんが発見した史料『久留馬村誌』には、驚くべき記述があった。

gessei.jpg
千葉の日蓮宗仏師福崎月精の助力をうけた・・・?!?!

福崎月精・・・
福崎日精の誤植か??
もちろん『福崎月精』という別人がいることも想定しておく。しかし。

巨大仏像、昭和初期、千葉県。全てが福崎氏と一致する。
しかも、昭和4年に着工し、昭和6年に完成したとされるこの菊間大仏。
私の調査によれば、昭和5年には福崎日精はキャリアの中で最も古い像、千葉県勝浦市・津慶寺で、日蓮像を製作しているのだ。
つまり、日精氏が「千葉の日蓮宗仏師」とされる(もしくは実際にそうだった)可能性はじゅうぶんにある。

だが、当ブログの直前の記事によれば、福崎日精氏は明治38年生まれ。
菊間大仏が着工した昭和4年の時点で若干24歳。
すでに昭和4年にしてこのジャンルの仏師として地位を確立していたことになる。ここまで何年も福崎日精を追いかけ続けてきた私にも、にわかには信じがたい事実だった。。

「月精」が師匠や関係者の可能性も残されてはいるが・・・。
もしも「福崎月精」という人物が実在したとして、なんらかの関係はあるに違いないように思われた。

唐突に繋がる、菊間大仏と福崎日精。
まさか、この絵葉書一枚から福崎日精らしき人物が記載された情報に繋がることになるとは夢にも思わなかった。
福崎日精はどれだけのコンクリート大仏に影響を与えているのだろうか、近づいてきたと思われた全貌がますますわからなくなってきた。

《つづく》

《次回予告》
古いアルバムに残されていたのは菊間大仏の絵葉書だけではなかった。
大量に残された昭和初期の写真。そこに写されたコンクリート像の数々と貴重な証言。
次回、コンクリート像を見にゆきます(仮)
『交わる2人のコンクリート仏師の運命。雲岳と日精』(前編)
お楽しみに!!


今回の菊間大仏の一連の動きをもっと詳しく知りたい方はtogetter(「ビジュアルがヤバい大仏さまを捜しています。」この大仏はどこに、いつまであったのか。一枚の古い絵葉書から場所、時代を特定せよ!)をご覧ください。
後日談ももっとたくさんあります。たまごとじさんによる調査も継続中です。


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プロフィール

つるま

Author:つるま
コンクリ像、歴史、廃線、民間信仰、などなど

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メール bluegrassnagoya@hotmail.co.jp

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