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2016. 02. 09  
前3回の記事で、昭和初期の福崎日精の作品と思われる恵那峡のコンクリ像を紹介した。
恵那峡再訪‏1
恵那峡再訪2
恵那峡再訪3

ここからは、この恵那峡周辺のコンクリ像群を含めて、「福崎日精」という人物について、これまでわかっていることを検証していきたい。

福崎日精について、私の知る限りネット上で得られる情報は驚くほど少ない
いくつかの看板にはその名に「高名な仏師」なる前置きが付いているにもかかわらず、だ。
IMG_1308.jpg

ネットでの先行研究としては、本ブログが敬愛してやまない偉大な小嶋独観師による『珍寺大道場』がそのほぼ全てだ。

本来であれば筆者が直接訪れてレポートすべきであるが、あまりに日本の広範囲に渡るため、すぐには行けそうにない。
師の貴重な記事の中に福崎作品の幾つかの類例を散見することができるので、是非今回の検証の参考にしていただきたい。

大淵寺護国観音/埼玉県(昭和10年)
身代わり観音/佐賀県江北町(昭和28年)
江東寺/長崎県島原市(昭和32年)

そしてもう一つ、欠かすことができない福崎作「大弘法」が存在する。

弘願寺/新潟県新潟市


種々の情報(  )によれば、寺ができたのが昭和44年。ということは、その時期以降に建築された可能性が高い。
しかもこの大弘法、ストリップ場の跡地に建てた寺の屋上に建てられたといういわくつきの物件。いまでは廃墟に近くなっているようであるが、一度は訪れてみたい場所である。

そしてもう一つ、前々回記事にて紹介した、

戦没者慰霊平和観音/岐阜県多治見市(昭和40年)
IMG_5195.jpg IMG_5193.jpg

とにかく、福崎日精は昭和10年から昭和40年代までの長きにわたって、そして全国各地に種々の巨大コンクリ仏を建てている人物であることがわかる。

そして、珍寺大道場での「福崎日精まとめ」ともいうべき記事が

信貴山朝護孫子寺/奈良県

である。
参照させていただくには少々読み応えのある記事であるが、福崎日精の謎にお付き合いいただける方は是非ともお読みいただきたい素晴らしい記事である。

これらの記事からわかるのは、福崎日精と推定される(あくまで推定である)作品の中でも、最古のものは昭和8年であるということ。
ということは、今回の恵那峡における昭和6〜7年の作品群は、すでに知られている福崎作品の中でも最古のものと思われることになる。


恵那峡作品群をおさらいしてみよう。
前3回、記事にしてきた恵那峡周辺の福崎日精作と推定される像は以下のとおり。
恵那市(旧大井町)側にある「昭和6年に建立したという恵那市史に記述のある5体のコンクリート像」のうち、「作風の違う弁財天」と、既に壊されたという「不動明王」を除いた3体と福崎氏が宿泊した場所に造った「コンクリレリーフ」。

・白衣観音
IMG_1341.jpg

・立弘法
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・弘法坐像

IMG_4919.jpg

・ライオンレリーフ
IMG_4956.jpg


そして中津川市(旧蛭川町)側にある高徳寺周辺の5体。
・白衣観音
IMG_4967.jpg

・剣持弘法
IMG_4974.jpg

・蛙薬師(昭和7年建立、昭和9年開眼)
IMG_4994.jpg

・立弘法(昭和7年9月)
IMG_6061.jpg

・弘法坐像(未発見)
nissei2.png



今回の恵那峡コンクリ像群と、これまで判明している日本全国の福崎作品を地図にプロットしてみる。
恵那峡周辺を中心とした福崎日精作コンクリ像配置図

こうしてみると、福崎日精作品は本当に日本全国に存在することがわかる。

さて、恵那峡の周りに星型で示したのがこれまでに本ブログで紹介したコンクリ像群である。
enakyo.png

もはや恵那峡=大井ダムに結界でも張ろうとしていたとしか思えないほどの像の密集具合である。
恵那市側の白衣観音や立弘法の看板にあるように、『慰霊のため』にこのような配置となったのだろうか。
そしてその中心には『作風の違う恵那峡弁財天』が存在するのも気になるところだ。
5.jpg

にしても、凄まじい創作意欲である。
前回も書いたが、果たして福崎日精の一存でこんなにもたくさんの像を一度に建てられるものだろうか。

前述の『奥渡の丘写真集』にこのような記述がある。
一九三二年(昭和七年)に仏師福崎日精により現在の薬師如来像(コンクリート製)が当時の金で一千余円の一般の寄付により造られた。一九三四年(昭和九年)に開眼供養が盛大に行われた。

nissei.png

つまり、蛙薬師一体だけでも千円以上のお金がかかっているわけだ。
Yahoo知恵袋による白米をもとにした計算によれば、昭和7年の1000円は約250万円ほどの価値であるという。結構な大金だ。



約2年の間ずっとこの地に留まり、これだけのコンクリ像を一人で造ったというのはやはり並大抵のことではない。
しかも、発見されている福崎作品のうち、最も初期の作品であるにもかかわらず、その完成度はどれも異様に高い。そしてそれらはほぼ建立当時のまま現存しているのだ。

果たして福崎師は、どれくらい「高名な仏師」だったのか。
誰の導きによって、なぜここへ、そしてどこから来てどこへ行ったのだろうか。
やはり、謎は深まるばかりだ。

(つづく)
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