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2018. 11. 16  
子どもの頃の初代子安観音様のことを語る青島のみなさんの記憶には、共通して、ある人物がいた。
私がお話を聞いた島の皆さんは70歳前後であることから、その記憶はきっと50年近く前、昭和30年代ごろのお話だろう。
島の子どもたちには『観音堂のおばちゃん』『堂守のおばさん』と呼ばれていた。

小さく、腰の曲がったおばちゃんは、観音様の足元にあった一軒家に一人で暮らし、堂守りの務めとして、観音像を守っていたそうだ。
島の子どもたちはたまにその観音堂に遊びに行ったというが、子どもながらにもその女性は少し島の人間からは遠い存在だったように記憶しているという・・・。

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前回の続き

さて、青島の漁師、タニガワさんのお宅にて。
Sさんがお持ちの資料は、これだけに留まらなかった。

まずは、Sさんのお義父さんが撮影したという、初代青島子安観音像の写真群。
kannon_c
子供達が観音像の足元で遊ぶ様子がうつされた写真

そして、初代観音像の接写写真。
kannon_2.jpg kannon_3.jpg

kannon_6.jpg kannon_7.jpg

これらの写真には、よく見ると、観音像からところどころ鉄筋がのぞいている。ボロボロになった観音像が写されていた。

これらのモノクロ写真がいつ撮影されたかは定かではないが、その観音像の様子から、昭和後半のものであるだろうと推定された。
私にはまるで、像がいつか朽ち果てることを予測して記録するためかのような写真に思えた。


さて、なぜこのような写真をSさんのお義父さんが撮影していたか。
その事情を聞いて、また驚いた。
Sさんの夫の父であるヒロシは、與三郎さんとお浦さんの息子として青島に生まれた。弁財天の写真で福崎日精氏と一緒に写っていた與三郎さんの息子である。おそらく大正の生まれであると推測される。

生前、朝日新聞社に勤務しており、戦時中は軍属カメラマンとして太平洋戦争にも従軍したそうだ。
退職後は青島に戻り、趣味として島の写真を撮影していたのだという。

観音像の麓に生まれ、写真を得意とし、晩年には島の風景とともに観音像の写真を収めている。なんとも観音像との縁深い人生である。

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在りし日の初代観音様の様子がありありとわかる貴重な写真の数々であった。


そして、Sさんの所有する資料はもう一つ。
與三郎・お浦さんに宛てた、とある僧侶からの年賀状
shisa_1 shisa_2

9_2.jpg

志佐鳳洲和尚からの年賀状だった。

『志佐鳳洲』とは、本シリーズ①で紹介した、現在の観音像の石碑に刻まれた「初代観音像を建立した人物」である。
そこには、松浦市志佐町にある寿昌寺の第二十五代住職であると刻まれていた。

この年賀状の消印は「伊勢崎」そして差出人を示すスタンプは群馬縣伊勢崎泉龍寺となっている。
これはどういうことか。もちろんSさんはなぜこのハガキが群馬県から青島に届いたのかを知る由もなかった。

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さてここで、突然話は変わる。

像の建立のキーマンである志佐鳳洲氏について、この青島の調査以外で、私つるまのこれまでの調査で判明していることを全てお伝えしたい
複数の調査結果を一度に報告するので、途中わかりにくい表現があるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

この志佐鳳洲和尚、ツイッターでの観音像捜索騒動での解決のキッカケになった書物、『観音の霊験』(昭和15年)にも登場する僧侶である。この『観音の霊験』では、埼玉県秩父市の大淵寺護国観音像の建立エピソードの中に登場する僧侶として描かれている。

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観音の霊験(125ページ)より

ここには昭和9年8月に埼玉県秩父市の大淵寺に姿を見せたことが記載されている。

また、インターネット上には、大正時代に沖縄県で廃寺の復興を行ったという記述を見ることができる。

いったい、志佐鳳洲とはどのような僧侶であったのか。

実は、この旅の中で私は、青島に渡る前にもう1箇所、志佐鳳洲氏に関する聞き取り調査を終えていた
調査先は、かつて志佐鳳洲氏が住職を勤めていた臨済宗のお寺、不老山寿昌寺である。
(この聞き取りに関してはツイッターのフォロワーさんの多大なご協力で実現しました。感謝を申し上げます。)

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不老山寿昌寺。松浦市ではかなり由緒あるお寺だ

寿昌寺は青島の対岸、長崎県松浦市志佐にある。
ご住職によれば、志佐鳳洲は長崎県佐世保市の出身、寿昌寺の三代前の住職であり、 説教師であったという。
説教師とは、全国をまわって仏教を布教する宣教師のような存在である。
当時禅宗の僧侶は結婚することができず、氏は晩年まで独身を貫いたという。

三代前のことで、像の建立などについてご住職は具体的なことを何も伝え聞いていないというが、
鳳洲師の説教師という性質上、全国に氏が関係する像があっても何の不思議もないという。

そして、ご住職によれば、最近まで寿昌寺の境内にコンクリート製の地蔵菩薩があったという。
それは私が持参した資料に収められている福崎日精作品によく似た表情をしていたという。

DSC_0132.jpg
最近まであったコンクリート製地蔵菩薩は石造りの像に替わっていた。

寿昌寺さんで判明したことは以上である。


そしてもう一つ、志佐鳳洲からの年賀状に記載のあったお寺、群馬県伊勢崎市の泉龍寺にも電話で問い合わせをしてみた。
判明したことはたった一つ。鳳洲氏は泉龍寺の3代前の住職であること、ただそれだけ、それ以外は全く収穫がなかった。

しかし。
実は『泉龍寺』という名前を聞いた時、私はその名前に聞き覚えがあった。
びわこ大仏のある滋賀県長浜市の良畴寺で観音像の写真を手に入れたとき(2016年9月)に、住職から「きっと泉龍寺にも福崎氏の像があるはず」という情報をいただいていたのだ。

そして、関東への現地調査の機会をもてなかった私に代わり、泉龍寺に赴いていただいたのが、関東に住む珍寺研究の第一人者である、珍寺大道場道場主・小嶋独観氏その人である。
もともと私がコンクリート像研究にハマるきっかけとなったのは珍寺大道場であることはこのブログに何度も書いた通り。
その偉大な師匠にあたる方が、私の情報を元に泉龍寺へ現地調査に足を運んでいただいたのである。

小嶋師からの報告は次の写真で明らかであった。
IMG_4581.jpg
泉龍寺・地蔵菩薩像(小嶋独観氏提供)

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泉龍寺・子安観音像(小嶋独観氏提供)

コンクリート製地蔵菩薩像、そしてコンクリート製子安観音像である。
寺院の境内にはこれ以外にも同様のコンクリート像が多数あるという。
青島のものと比べるとかなり小ぶりなものであるように見えるが、その像の表情はいずれも福崎作品のそれである。

以上が、これまでに調査を行った志佐鳳洲氏の全てである。


ここまでに判明している志佐鳳洲氏の全ての足取りを時系列で並べると、次のようになる。

明治時代   長崎県佐世保市に生まれる
大正時代   沖縄で寺院の復興にあたる
昭和初期   長崎県松浦市不老山寿昌寺の住職となる
昭和6年   長崎県松浦市青島の子安観音の建立開始
昭和9年   青島子安観音完成
昭和9年8月 埼玉県秩父市大淵寺の護国観音を企画
昭和9年12月 群馬県伊勢崎市泉龍寺の住職となる(?)


志佐鳳洲氏は長崎に生まれ、説教師として全国を周ったという。
少なくとも2つの巨大コンクリート製観音像の建立に関係し、関東のお寺の住職となった。
では、なぜ青島に観音像を建立するに至ったのか。

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ここで再び、話を青島のタニガワさん宅に戻そう。

私が用意していったA4に引き伸ばしてプリントした観音像の写真を前に、Sさんは言う。

IMG_8890.jpg

「観音様のテレビ(テレ朝羽鳥慎一モーニングショー)のお話があった時、島のみんなで住民センターに資料持ち寄ってお話したんです。○○さんや△△さんも写真を指差してこれが私ですって言いよらした。でも今となれば全くわからん、私は。その人たちを連れてこないと。これみんな青島の人よ。」
「あと、(メガネの人物を指差し)この人が観音様建てた人よー、て言ってる人がおらした。だからたぶんこの人が職人さんなんでしょう」

にっしょう
Sさんが指差したメガネをかけた人物。

横で話を聞いていたタニガワさんのお母さんが、おもむろに口を挟んだ。
「観音様作った人は、絶対お魚の生もんは食べらんで、味噌とかなんとか食べて、作られたそうですって、話ば聞いとるよ」

!!
このエピソードは、私がこれまでに各地で聞いた福崎日精のエピソードと全く同じであった。
日精の手紙、掛け軸、そしてエピソード。
間違いない、観音像を実際に製作したのは福崎日精その人なのだ。

これらの話から、私はこう予想する。
つまり、志佐鳳洲は企画者・プロデューサーであり、実際に製作したのは福崎日精だったのではなかったか。昭和6年というのは福崎の活動期間からするとかなり初期である。


そして話題は、写真に写っている和尚、志佐鳳洲に移った。

おしょう

Sさんは言う。
「それで、観音様のテレビのお話があった時、私の職場の若い女の子で、志佐からお嫁にきた子がおるんだけど、その子のお父さんは和尚さんの遠縁にあたるらしくて、お父さんがその女の子に言ったらしいの。

この人(志佐鳳洲和尚)はほんとは青島に観音様を作る気は無かったらしい、青島に作るつもりは無かったんだけど・・・、

青島にこの人の愛人がいたっていうのをお父さんから聞いたっていうのよね。その奥さんになる、まあ奥さんっていうか、仮の奥さんが、青島出身なので、奥さんの里に作ろうかということで、青島に観音様を作ったらしいよっていう話。」

Sさんは続けた。

「それで・・・、鳳洲さんの愛人っていうのが誰かっていうと・・・、私が想像するには・・・

「観音様のおばちゃん」じゃなかったかなと思うんです。

観音様のそばに昔、一軒家があったんですよね。」

タニガワさんもうなずく。「あー、一人で住んどらしたたい。観音様の脇に。」

「そこに平屋があったんです。昔、青島にはお宿がなくて、薬売りだとか、青島に来た人が、そこに泊まってたんです。賄い付きで。私たちの小さいころ。
私は女の子からその話を聞いた時に、志佐鳳洲さんの、愛人・・・って言ったらおかしいけど、仲良くしとったそのお方っていうのは、多分観音様のおばちゃんなんだろうっていう、これは想像なんですよね。」


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青島の中心部にある住民センターには、今も初代観音像の写真が飾られている。
DSC_0254.jpg


青島では、これまでに子供に関する水難事故が一度も起きていないのだという。
島の方々に観音像の話を聞くと、誰もが観音さまにまつわる不思議なエピソードを持っていた。
幼児が港で海に落ちて溺れかけたが2分以上浮かんでいた、など、災難にあっても不思議と助かったという。
そして、助かった後、島を見守る観音さまに手を合わせ、感謝したそうだ。
観音像は、まさに島にとっての守り神であった。
戦前から戦後にかけて、伊万里湾を通る船から必ず見える観音像へは島外からも参拝客が絶えなかったという。
賽銭もかなり集まったのではないかということだ。

昭和60年に初代観音像が台風で倒壊した後、立て続けに子供の事故が起きた。
その時に、やはり島には観音様がいなくてはいけないということで、現在の石像の二代目青島子安観音の建立が企画されたのだという。残念ながら石では初代観音像ほどの大きさにはできず、小ぶりなものになってしまったが、島の内外からは多くの寄附が集まったといい、その信仰の深さをうかがわせる。

ツイッターでの判明直後に、観音像が建立された目的は「子供の成長と航行する船の安全の守り尊、伊万里湾の守護」であるという話を聞いていた。それももちろん表向きの理由だろう。

しかしもうひとつの理由には、島の人たちも知らないひとつのロマンスがあったのかもしれない。
80年以上前、関東の寺に行くため九州を離れるひとりの僧侶が、愛する人のために残した置き土産。

その姿は変わろうとも、観音様は今も島の人々を見護っている。





次回、コンクリート像を見にゆきます(仮)
予定を変更して、もう少しだけ青島編が続きます。
観音様の見護る島⑥完結編 〜大観音を巡る旅、島に残された写真〜



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