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2018. 12. 29  
《前回の続き》

2018年9月17日。

調査旅行も折り返し地点を迎え、3日目朝。
今日の調査先はまず、佐賀県江北町にある曹洞宗のお寺、東照寺だ。
ここには「身代わり観音」なるコンクリート像があるという。

佐賀県観光連盟のホームページ内にも「福崎日精」の名とともに紹介されており、観光地としても一定の評価を得ているようだ。
https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=184

JR長崎本線と並行して走る国道34号をずんずん行くと、醫王山東照寺に到着。

IMG_6168.jpg
山の中腹に白く輝く観音像が見える。

私が初めてこの観音像の存在を知ったのは、当ブログでお馴染み、珍寺大道場の記事である。
身代わり観音/佐賀県江北町 − 珍寺大道場
2006年に書かれたこの記事を読むと、筆者の小嶋氏にとって、この場所は「仏師・福崎日精」を意識した重要な場所であるようだ。
私自身も、このサイトのこの記事を初めて読んだとき、「福崎日精」なる人物について興味を持つことになった。


さて、観音像に足を進めてみよう。

IMG_6263.jpg
東照寺山門に到着


山に向かって坂道を進む。
息を切らせて階段を登るとそこには・・・・

IMG_6182.jpg
よくぞ参ったな

身代わり観音像の登場である。


IMG_6184.jpg
どーん。身代わり観音像の登場!


IMG_6237.jpg
正面から

IMG_6227.jpg
右から

IMG_6194.jpg
左から

mgwr.jpg
衣服は既視感のある、コンクリートとは思えない繊細な表現

なんだろう、この圧倒的存在感。
階段を上って正面から堂々とこの威圧感を放って登場する、まるでRPGのラスボスにでも出会ったような、そんな感覚だった。

ふくふくしいお顔、ゴテゴテした宝冠、精緻な衣服の表現、そのどれもが仏師・福崎日精の作風である。

腰を掛けているような、半跏の姿の観音像は珍しいそうで、判明している福崎作品の中でも他に類例はない。

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さてここで、江北町役場に事前に問い合わせをして得た観音像についての資料を紹介したい。

「江北町の文化財と周辺に残る遺跡」平成11年7月発行
 東照寺の裏山にある身代わり観音像は、東照寺19世洪範義彰和尚が、かつての本田大和守昭雲公[平治2年(1160)山口城主、山口昭雲公が、東照寺の前身である観音寺を建立]の観音信仰の縁起により、「七難即滅、七福即生」の功徳があると云われている観音像を、奈良生駒山の仏師、福崎日精の手によって、昭和28年(1953)7月建立したものであり、西宮三大観音の一つである。
 御尊体には銀箔が塗られ、首飾りには珊瑚をちりばめ、精細に仕上げがなされている。
 六角形の台座の高さは9尺(約3m)、台座から御尊体の高さは17尺(約5.5m)余りである。
 裏山の高所より、道行く人を穏やかな眼差しで見守っておられる。
 


とある。
資料には福崎日精の名前、昭和28年7月の建立がハッキリと明記されていた。
細かいことをいうと、私にはここに記載のある「奈良生駒山の仏師」という表現が気になった。
これまでの調べでは、福崎氏はどうやら「信貴山」に滞在し、像の製作を行っていたようなのだ。
あまり土地勘がないのでよくわからないが、「生駒山」と「信貴山」は別の場所ではないのだろうか?

そういえば。岐阜県の恵那峡を最初に訪れた時、弘法大師像の横に建てられた案内看板にもこのような記載があった。
奈良県生駒山の高名な仏師」

この時はまったく気に留めなかったが、よくよく考えると生駒山と信貴山ってベツモノなんじゃないだろうか?
混同しただけなのか、それとも私がまだ知らない事実があるのだろうか。
これについては今後の宿題としたい。
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さて、観音像周辺でひととおり撮影を終え、本堂へ聞き取り調査に向かおうとしたその時、階段ですれ違おうとしたやや高齢のご夫婦に話しかけられた。

「あなたも新聞記事を見て来られたんですか?」

新聞記事?なんのことだろう?

不思議そうに眺める私の顔を察知してか、男性が手に持った紙を見せてくれた。
それは、新聞の切り抜きだった。

IMG_6256.jpg
「七難即滅 にじむ慈悲深さ」

「今朝の朝日新聞の朝刊ですよ。私たちは近くの大川市に住んでるんだけど、これを見て初めてここに観音像があることを知って来たんです。」と言う。

今朝の新聞!しかも、また朝日新聞・・・。
これも何かの縁なのかな。
そう思いながら、親切に教えていただいたご夫婦に礼を言い、再び本堂に向かった。


事前に来訪を伝えてあったこともあり、本堂では老僧と奥様が対応してくださった。
いきなり訳のわからない調査に伺った失礼な私を優しくもてなしていただいた。

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老僧によれば、観音像の建立者は老僧のお父様。
老僧自身も当時、観音像を製作する福崎日精氏にお会いしたことがあるという。

福崎氏が製作することになったのは、どうやら京都の袈裟を扱う法衣店を通じて紹介があったのではないかということだ。
鉄道の便が良かった東照寺に、福崎氏は汽車に乗ってやってきた。

福崎氏は番線(針金)とコンクリートで像を製作した。砂は川砂を使ったという。
戦後間もなく、という訳でもないが、それほど裕福でもない時代。
お寺の信徒さんたちの団体は、いわゆる労力奉仕のような形で、製作のお手伝いをしたのだという。
福崎氏はかつて観音像の横にあった小屋に住み込み、像を製作したという。
そして、生ものは決して口にしなかった。
福崎氏の奥さんが訪ねてくることもあったという。


ところで、東照寺さんで観音像の建立当時のエピソードについて気になることを聞いた。
東照寺さんの床の間には、一幅の掛け軸がかけられていた。

IMG_6244.jpg

それは、白衣観音の足元から龍が登ってくる構図の、「龍頭観音」と呼ばれるモチーフの掛け軸だった。

IMG_6249.jpg
そしてその隣には立派な書の掛け軸も

実は、当初、観音像を建立する計画が持ち上がった時、この掛け軸の絵を元にして建設が始まったというのだ。それは、現在のような白衣観音ではなく、「龍頭観音」であったというのだ。
しかも、製作者は福崎氏ではなく、地元の職人さんだったという。
しかしその像はうまく作ることができず、計画は途中で頓挫してしまった。

その代わりに招聘されたのが、福崎日精氏であった。
そして、昭和28年に建てられたのが、現在の身代わり観音像であった。

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奥様によれば、観音像の修復は定期的に必要だが、不思議と修繕が必要な時に、必要な額がお賽銭で賄われるのだという。
「自分で働いて自分でお化粧ばしてくださるんですよ」と笑って仰った。

東照寺には、ほかのお寺さんと同様に福崎氏の親戚にあたる方が訪ねてきたことがあるという。この身代わり観音さまを見て、「この観音様は一番きれいに保たれている」とおっしゃったそうだ。


なんにせよ、この佐賀の地に残された素晴らしい観音像を拝観し、生前の福崎氏の貴重なお話を聞くことができた。
こうして調査の3日目は順調に幕を開けたのである。


《つづく》
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