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2019. 04. 10  
福崎日精氏について書かれた文献は少ない。
私の調査が不足しているだけかもしれないが、これまでに福崎日精氏の名が書かれた文献は今のところわずかに次のとおりである。

岐阜県恵那市・中津川市にまたがる恵那峡周辺のコンクリート像についての記述がある『恵那市史』、『蛭川村史』、『奥渡の丘写真集』。
佐賀県江北町の身代わり観音像について書かれた『江北町の文化財と周辺に残る遺跡』。
そして前回紹介した長崎県島原市の『江東寺史』。

しかし、そのどれもがコンクリート像の由来を中心に書かれているのみであり、像を製作した人物の出生やひととなりについてはほとんど書かれてはいなかった。

ところで、2017年の12月、青島の大観音捜索が最も話題になっていた頃、私は一つの文献を手に入れていた。

手に入れた経緯は、TBS製作の『ビビット』というワイドショー番組。
その取材班が私の自宅を訪ねて来た時、彼らは滋賀県長浜市の良畴寺での取材を終えた途上だった。
良畴寺のご住職に託されたその資料にはこうあった。

『房総の潜水器漁業史』(大場 俊雄・ふるさと文庫・1993年)
本書は、房総における潜水器開発について書かれているものだった。
託された資料は特に、千葉県勝浦市に現存する『丹所春太郎像』に関する記述が記載された部分だった。

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丹所春太郎像がある千葉県勝浦市・津慶寺

丹所春太郎は、潜水技術を向上させ、漁の発展に貢献した人物だそうだ。
その資料には福崎氏の知られざる一面が詳細に記されていた。引用して紹介したい。

勝浦市にある丹所春太郎像

「氏逝キテ茲ニ二十有余年其ノ功績ハ愈々顕ハレ氏ノ恩沢ニ浴スル者益々多シ」と頌徳碑にある。恩に報い偉功を後世に伝えるため、丹所春太郎氏像と頌徳碑を千葉県夷隅郡豊浜村川津(現在、勝浦市川津)の浪切不動尊堂前に建てたのは昭和十一年(一九三六)年七月であった。そこは津慶寺の墓地である。
 像は、千葉県夷隅郡太東地先で潜水していたころかかせた潜水服姿の春太郎の掛け物の絵をみて、現在の勝浦市出水●●●番地出身の仏師、福崎日精が造像した。(筆者注:驚くべきことに本書には住所が記されている)
 植村ゆき氏によれば、日精は断食して身を清め、この像を制作し、分骨した春太郎の遺骨を像の中に納めたという。建立の作業には日精の兄弟である清吉、巳之吉、秀正の各氏が協力している
 昭和四十九年には像のヘルメットの格子付き側面ガラス部分のコンクリートが落ち、福崎浪雄氏が修理した。
 この像は鉄筋コンクリートの像である。コンクリートではあっても、像の潜水服には本物の潜水服のように緩やかなしわも表現されて、柔らかさがでており、ヘルメット、潜水靴、磯金など細部にわたって精巧を極めて造られている。毅然として川津漁港越しに太平洋を望む春太郎の像の眼はあたかも生きている人の眼のようである。この像をみてあたたかみを感じるのは著者だけではないであろう。満三十一歳の日精の入魂の作であった。


ここから新たに分かることがいくつもある。
・丹所春太郎像は昭和11年(1936年)7月に建立された。
・福崎日精氏は勝浦市出水の出身である。
・福崎日精氏には兄弟が3人おり、製作に協力している。
・昭和11年に満31歳であった。(ということは明治38年(1905年)ごろの生まれか?)。

これは、謎に包まれていた福崎氏の出自に関するかなり有力な情報である。
コンクリート像の衣服についての記述も、これまでに当ブログで紹介してきた各地に残る氏の作品に共通した表現である。

そして本書はこう続いていた。

そのころ、日精は滋賀県坂田郡六荘村下坂浜(現在、長浜市)の、琵琶湖畔にある良畴寺で、護国阿弥陀如来像の大作を行を積みながら制作中であり、また、昭和十一年には十一月には愛媛県喜多郡大洲町若宮(現在、大洲市)の西光寺で、玉除地蔵尊像を造立している。仏師福崎日精は超俗清浄な人であり、熱烈な崇仏者でもあった。

この部分、前半で紹介されているのは、当ブログをご覧の皆様にはご存知、滋賀県長浜市・良畴寺の護国阿弥陀如来像についての記述である。

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昭和12年完成、日本一の大きさの阿弥陀如来立像(当時)

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製作中の阿弥陀如来像と福崎日精氏、ニッシュウ氏。

そして後半。愛媛県大洲市西光寺の玉除地蔵尊像。
本ブログでは初めての紹介となるこの像へは、ツイッターでの私の呼びかけに応じた中国地方に住む「れめさん」に四国の大洲市にまで足を運んでいただくことができた。

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愛媛県大洲市・西光寺

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福崎氏の特徴的な衣服の表現が見られる

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初期の福崎作品に見られるコンクリートのザラつきを残した仕上げ

(写真提供:れめ(@b1_reme)さん)

この地蔵尊像は、2018年3月に手に入れた福崎メモにも掲載されていた。
実は西光寺さんにも電話で聞き取りを行っていたが、例によって建立の経緯は全くわからなかった。

しかし本書により、この像は『玉除地蔵尊像』といい、昭和11年11月に建立されていることがわかった。

時系列に並べると、この時期、福崎日精は護国観音像(埼玉県秩父市大淵寺・昭和10年)、丹所春太郎像(千葉県勝浦市津慶寺・昭和11年)、仁王像(佐賀県有田町桂雲寺・昭和11年)、護国阿弥陀如来像(滋賀県長浜市良畴寺・昭和12年)と、全国各地に精力的にかなり大規模な像を製作していることが既に判明している。
そのうえ、四国にまで像を製作に来ていることになるのだ。

資料は丹所春太郎像について、こう続いていた。

像と頌徳碑の建設は潜水関係者の浄財によった。南総潜士相互組合の潜水夫や潜水服潜水器販売会社、潜水ポンプ製造工場、漁業組合、潜水服修理人、南総潜士相互組合がよく利用した旅館など合計八二名が寄付者として碑背に刻まれている。

まだ見ぬ千葉県のこの像。福崎氏の長いキャリアの中でも最初期に生まれ故郷に錦を飾る、氏にとって重要な作品であるように思われた。
まだ訪問することは叶っていないが、いつか訪れてみたいものである。


いずれにせよ、この資料の存在により、福崎氏の出生と年齢について判明した。
ふと考えてみると、本ブログで氏を追いかけるきっかけとなった恵那峡周辺の像は、昭和6〜7年の作である。
となると、氏はこれらの像を20代で製作したことになるのである。これもまた驚くべき事実だった。

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恵那峡周辺コンクリート像一覧

最初期にこの場所で、コンクリートでこれらの像を製作することになった詳しい経緯についてはまだ謎のままだ。
今後さらに検証を重ね、福崎氏の生涯の全貌について明らかにしたいと願っている。
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